薩英戦争に対するイギリスの反響

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2013.07.01

著:鹿児島市維新ふるさと館特別顧問 福田賢治氏)

  • 多くの教訓を得た「薩英戦争」
    薩英戦争記念碑
  • 多くの教訓を得た「薩英戦争」
    旧薩摩砲台跡
  • 多くの教訓を得た「薩英戦争」
    薩英戦争絵巻
    (鹿児島市維新ふるさと館所蔵)

今から150年前の薩英戦争は、イギリス本国ではどのような反響があったのでしょうか。文久2年(1862年)、生麦事件で暗殺されたリチャードソンは一人息子でした。彼の父親が事件発生を知ったのは、事件発生から2か月後の新聞報道でした。父親は、外務卿のラッセル氏に問い合わせの手紙を書きましたが、まだ詳細がつかめていない旨の返事をもらいます。新聞報道から20日後にやっと日本のニール代理公使から事件概要の書簡が外務省に届けられました。

イギリスでは、薩摩に関する情報はほとんどなく、報復のための基礎的資料にも乏しいため、最悪の場合は「交戦もやむなし」との方針だったようです。事件発生から約3か月を経過して、やっと駐日代理公使ニールに次のような指示を与えました。薩摩に対し、犯人の処刑と賠償金2万5千ポンド(10万ドル)の支払いを要求し、もし薩摩がそれを拒み、又は引き延ばした場合は相応の措置をとることの指示でした。

こうしたイギリスの再三の要求にも応じなかった薩摩に対し、イギリスは7隻の艦隊を鹿児島に派遣、さらに交渉を重ねましたが決裂し交戦となりました。暴風雨のうえに、旗艦ユーリアラス号の艦長、副艦長が直撃弾を受け即死するなど悪条件も重なり、退却せざるをえませんでした。

イギリスは、「薩摩は九州島の西南の端」との情報程度しかなく、居城の砲撃か、又は港の封鎖かを提督らの判断に任せるとの指示でした。当時はまだ山川湊の海図しかなく、鹿児島湾内の水深を測りながらの航行でした。測量専門技師をわざわざ上海から呼び寄せ、さらに薩摩に来たことのある日本人水先案内人を横浜で雇いました。案内人から、谷山沖に「七ツ島」があると聞き、そのどこかの島に7隻の軍艦が停泊できると思っていましたが、七つの小さな岩が海中から突き出ているだけだったことに驚いています。「沖小島」を「ニール島」、桜島の小池海岸周辺を「ユーリアラス湾」、鹿児島湾の「神瀬」を測量技師パーカーの名から「パーカー瀬」と名付けています。

戦争の結果はイギリス本国に報告されました。ビクトリア女王は交戦になるのではないかと懸念していたことが現実となり、英国議会の開会挨拶の中で、鹿児島市民に多大な被害を与えたことに対し遺憾の意を表明しています。イギリス国内においては、英国艦隊の行動を批難した住民の抗議集会などがあり、各地で批難の決議や書簡が政府や報道機関に寄せられています。交戦時に砲台を壊滅する必要はあっても、市街地を焼き払い、一般市民に多大な被害を与える行為は許せないとの声であり、人道的な立場からの深い同情の念が示されたものでした。イギリス艦隊が、再び鹿児島砲撃に向かわなかったのは、こうしたイギリス本国の事情があったからだといえます。

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