明治維新と薩摩藩

鹿児島出身ではないふたりの物語

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2016.03.01
  • 著者:東川 隆太郎

薩摩藩が費用を賄い、幕府などにも秘密裡に出航した英国留学生。実は、そのなかにふたりだけ薩摩藩以外の出身の人物がいる。ひとりは堀孝之で長崎の出身である。堀は留学生というよりは通訳として英国に行くことになった。堀家は元来長崎において通詞を職業とする家柄で、孝之も五代友厚や松木弘安とともに長崎から串木野の羽島に向かって合流している。英語が堪能ではなかった留学生らにとって、通訳は欠かさせない存在であり、道中の語学学習に大きく寄与したことであろう。英国から帰国後は、五代友厚のもとで右腕といえるほどの活躍をすることになる。

もうひとりは高見弥一である。この人物は土佐藩の出身で、脱藩して薩摩藩入りしている。脱藩のきっかけになった事件は、坂本龍馬も所属していた土佐勤王党のひとりとして、党にとって厄介な存在だった藩の要職・吉田東洋を暗殺するというものであった。事件後、土佐藩に留まれなくなり、当時は大石団蔵を名乗っていたが、脱藩し名前も変えて薩摩藩で生活することになった。帰国後の高見弥一は、それまでの波乱に満ちた人生ではなく、鹿児島の造士館で教員として後進の育成にあたる堅実な生活を送った。

ドラマあふれる人生を送った森有礼

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2016.02.03
  • 著者:東川 隆太郎

薩摩藩英国留学生の面々は、どの人物もドラマチックな人生を送っているが、中でも森有礼の人生はトップクラスに興味深い。帰国後の経歴を述べてみる。

明治元年(1868年)、イギリスの後渡ったアメリカから帰国した森は、明治政府の徴士、外国官権判事を務める。そこで廃刀論を建議したが、時期尚早だったのか士族層から抵抗があり辞職するに至った。鹿児島に帰郷してからは、現在の冷水町にあった興国寺跡で英学を教える日々を過ごす。しかし海外経験の実績もあり、再び明治政府で外務関係の要職に就く。その間に福沢諭吉らと自由民権運動の思想団体「明六社」を設立するが、政府によって解散に追い込まれている。明治18年(1885年)には伊藤博文内閣で初代文部大臣になるが、明治22年(1889年)の大日本帝国憲法発布の日に暗殺される。まさしく波乱万丈との表現があまりにもふさわしすぎる人生といえる。

かつては攘夷論者だった畠山義成

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2016.01.01
  • 著者:東川 隆太郎

留学生のすべてが始めから英国行きに前向きだった訳ではない。特に外国に対して斜めな考えを示す人物もなかにはいた。そのひとりが畠山義成である。出発に際して串木野羽島でしたためた歌に、その気持ちが表現されている。「かかる世にかかる旅路の幾度かあらんも国の為とこそ知れ」。まさに国のため、主君の命ならば、という思いだったのであろう。

しかし、畠山は実際に西欧に触れ、大きく考えを変えるようになる。なぜ分かるかというと、畠山は英国のみならず米国にも渡り、明治元(1868)年にはラトガース・カレッジに入学して法律や政治、社会科学などを勉強しているからだ。攘夷論を唱えていた人物とは思えない行動である。それだけに海外で得た刺激が相当のものであったことが想像される。

明治4年(1872年)、岩倉全権大使の随員辞令を受け、外交関係で活躍し、翌年帰国する。その後の功績は教育界でのものに集中し、現在の東京大学の前身である東京開成学校の初代校長に就任するなどしている。ただ、同じく留学し教育関係で活躍した森有礼とは、友情こそ失うものではなかったが、教育に関しては相いれないこともあったという。

~近代的機械を備えた石造洋風建築“集成館機械工場”~

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2015.12.02
  • 著者:福田 賢治

(著:鹿児島市維新ふるさと館 特別顧問 福田賢治氏)

世界文化遺産登録

この度、世界文化遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産製鉄・製鋼、造船、石炭産業」は8県11市の23の構成資産からなり、そのうちの3資産が鹿児島市にある。日本初の近代工業施設・旧集成館(反射炉跡、旧集成館機械工場、旧鹿児島紡績所技師館を含む)と関吉の疎水溝、寺山炭窯跡の3つである。今回は、旧集成館機械工場建設の経緯やその特徴を取り上げる。

斉彬以後の集成館事業

文久3(1863)年の薩英戦争でイギリスの圧倒的な軍事力・科学技術を思い知らされた薩摩は、その和平交渉の過程においてイギリス側の条件を承諾する一方で、軍事力強化のための軍艦購入を打診、了解を得た。これによって西欧の文化や科学技術導入の動きが加速され、元治元(1864)年6月には洋学校「開成所」が開設され、翌元治2(1865)年3月には、19名の使節や留学生がイギリスに派遣された。これらは、全て斉彬が富国強兵を図るために起こした集成館事業をはじめとする開明的な諸施策の一部であり、ようやく斉彬の先進性に気づいた薩摩では、
島津久光・忠義親子によって集成館事業の再建に着手した。

集成館事業の再興~機械工場(現:尚古集成館)の建設

集成館事業の再興に際して、まず着手されたのが機械工場である。元治元(1864)年10月、反射炉の建設などに携わった竹下清右衛門が責任者になり、金属加工・蒸気機関等に関する技術習得のため長崎製鉄所に派遣されていた波江野次兵衛や同所技術者の本庄覚次郎を招聘
へいして、日本で初めての洋風石造工場の建築に取りかかった。竹下はこれより3年前の文久元(1861)年12月に、長崎製鉄所に導入されているスチームハンマー(金属加工用プレス機)などと同様の機械をオランダから購入するよう家老・小松帯刀に訴えている。元治2(1865)年1月には、長崎製鉄所に注文していた工作機械が届き、4月には25馬力の蒸気機関やスチームハンマーなどを備えた洋式機械工場が操業を始めた。

ストーンホーム

建物は鹿児島で古くから使用されていた溶結凝灰岩が用いられており、当初から「ストーンホーム」と呼ばれ、イギリス人技師が建設に携わったのではないかとの説があった。しかし、構造の基礎部分に神社建築によく見られる亀腹石が使われていることや、屋根の構造にトラス構造(三角形を基本とする構造体)が取り入れられているものの、屋根を支える方杖と呼ばれる斜めの柱と全体を支える梁の大きさが本来の寸法と逆になっているなど、洋風建築に関する知識が乏しい面がうかがえる。これは、建設に当たった竹下らが長崎製鉄所の建物や書籍などを参考にして独自に工夫しながら取り組んだからではないかと考えられる。

外国製の機械導入

機械工場では、オランダやイギリス製の蒸気機関や工作機械が使用されていた。オランダ製(Netherlandsche Stoom Boot Maatschappij:オランダ汽船会社)の形削盤(尚古集成館蔵・重要文化財)や押切機、イギリス製(DRURY&WALKER BROE 社)の旋盤などが使用されていたが、導入時期については明確でない。

ただ、オランダ製の形削盤が1863年製であること、文久2(1862)年幕府の遣欧使節団に参加した松木弘安(のちの寺島宗則)が蒸気船や機械類購入の藩命を受けていたものの短期間の滞在で不可能なため、帰国していた長崎製鉄所のオランダ人技師ハルデスを名代にして購入を依頼していたこと、また文久初めに竹下がオランダ製機械の導入を訴えていたことなどから考えると、薩摩藩が薩英戦争前の文久の初めにはすでに機械工場建設の計画を決定していた可能性があることが指摘されている。

村橋久成は上級武士(大身分)

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2015.12.01
  • 著者:東川 隆太郎

英国へ向かう留学生は、様々な理由から選抜されている。ひとつは藩の洋学校であった開成所において優秀な成績を修めていること。それから当時としては普通の考えであった「攘夷」論を唱えている者。これは海外を直接触れてもらうことで、その考えを転換させる目的もあった。さらに選抜の上で重要視されたのが「身分」であった。つまり家柄のよさも選考する際には考慮された。町田久成の出た町田家も領地持ちである「一所持」であり、引率者の新納久脩も同様であった。

さて留学生として追加選抜されたのが村橋久成である。後に北海道開拓に従事し、サッポロビールの基礎を築くという功績からすると最初から選抜されてもおかしくなさそうだが、実は村橋が選ばれたのは欠員が出たためであった。

その村橋家は、上級武士(大身分)に分類される「寄合並」であり、島津家一門の加治木島津家の分家にあたる家柄だった。鹿児島城下における屋敷地は、現在の今給黎病院別館(長田町)にあったとされている。才能を見込まれての留学も、家の名を背負っての留学も同じく大変なことであったろう。写真に残る丹精な顔立ちを見ながらそう思うことである。

長沢鼎の秀才ぶりはご先祖の遺伝子?

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2015.11.01
  • 著者:東川 隆太郎

最年少での英国行きが命じられた長沢鼎は、幼少の腕白さも伝わっているが、イギリスの北部アバディーンの学校に入学すると、英語読解や地理、歴史などにおいて優秀な成績を修めている。そうした才能は、もちろん本人の努力も背景にあるだろうが、つい先祖や家族はどのような方々であったのだろうかと考えてしまう。

さて長沢鼎の本名は磯永彦輔であり、この磯永家は薩摩藩ではいわゆる研究者の家柄であった。まず彦輔の才能のルーツにあたると考えられる人物に磯永周英がいる。周英が活躍したのは、享保年間からで、天文暦学を研究する人物として薩摩のみならず、江戸や長崎でも知られていた。その知識は、薩摩藩が安永8年(1779年)に設立した天文観測所「明時館」で発揮されることになり、ここでの研究から「薩摩暦」が生まれることになる。
さらに周英の子である周経は天文に限らず地理にも長け、「天文図略説」や「円球万国地海全図」の編纂にも関わっている。また彦輔の父周徳は、島津斉彬の集成館事業にも関わるなどして活躍した。

このように代々活躍した研究者としての家系もあるだろうが、やはり長沢鼎自身の努力もあってこそのその後の活躍であったろう。

カルフォルニアでも鹿児島弁を話した長沢鼎

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2015.10.01
  • 著者:東川 隆太郎

薩摩藩英国留学生のなかでも最年少で参加した磯長彦輔こと長沢鼎が日本中で知られることになったのは昭和58年のことだった。当時のアメリカ大統領のレーガン氏が来日した際、日米友好のつながりの一例として国会の演説において長沢鼎のことを紹介したことによるものだ。長沢鼎は日本に帰国はしているが、留学生で唯一国外となるアメリカで業績を残し、アメリカで生涯を送ってもいる。そんな長沢は留学時に最年少の13歳であっただけに、語学や学問の吸収も著しく、スコットランドの中学校では首席の成績であったという。宗教家ハリスのもとでキリスト教を学び、その後も同行してカルフォルニアにおいてぶどう園を開墾することになる。そこではぶどう酒の製造にも着手し、農園のある地名から名づけられた「ファウンテングローブワイン」は、ヨーロッパや日本にも輸出された。従業員も300人はいた長沢だが、自身は生涯独身を通し、広大な邸宅で閑静な生活を送った。ただ、話す言葉は、日本語だと鹿児島弁であったようだ。ぶどうが実るカルフォルニアに「よかよ」などの言葉が響いたことを想像すると楽しい。

~日本近代化に貢献した「薩摩藩英国留学生」(その3)~

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2015.09.03
  • 著者:福田 賢治

(著:鹿児島市維新ふるさと館 特別顧問 福田賢治氏)

ロンドン大学で学んだ留学生

西欧の進んだ文化や技術を自分たちの目で確かめ学び取ろうと、イギリスへ出発した使節団及び留学生一行19名は、船旅の途中様々なカルチャーショックを受けながら、約2か月後の慶応元年(1865年)5月28日、イギリスのサウザンプトンに到着、そこから汽車にてロンドンへ向かい、長崎のイギリス商人トーマス・グラバーの兄であるジェームス・グラバーの出迎えを受けた。

使節団(新納久脩)、五代友厚、松木弘安、堀孝之)は紡績機械、銃砲、艦船などの交易及び外交面の交渉に奔走。一方留学生は語学合宿後、オリファント卿やロンドン大学のウイリアムソン教授らの計らいによりロンドン大学へ入学、13歳の長沢鼎だけは大学に入れず、グラバーの実家アバディーン(スコットランド)へ引き取られ、地元の中学校で最優秀の成績を修めた。留学生が驚いたことには、国内で最も強硬に尊王攘夷を唱えていた長州藩の留学生と出会ったことであった。

西欧の進んだ産業・経済の発展に驚く

一行は大学で学ぶ学業のかたわら、イギリス国内の進んだ産業技術を肌で感ずべくイギリス各地を精力的に廻り、五代友厚(大阪商法会議所初代会頭)らはマンチェスターで紡績機械を、バーミンガムで小銃数千挺を購入契約、モンブラン伯爵とは商社設立の契約などを進め、薩英戦争後の集成館事業再興に大きく貢献した。また、松木弘安(後の外務卿、寺島宗則)は英外相と交渉、当時の英国の対日政策を幕府寄りから薩摩寄りに方向転換させるなど、外交上大きな成果を挙げた。

日本の近代化に貢献した留学生たち

日本国内では薩長同盟が結ばれ、まさに幕末動乱の最中で、薩摩藩においては軍事費の増大に加え、第二次留学生を米国へ派遣せねばならなかった。そのため留学1年後には藩からの送金も途絶え、多くは帰国せざるを得なくなった。その間、留学生は個々に欧州諸国を視察する者もいたが、大半は慶応3年(1867年)までに帰国した。慶応2年、一足先に松木弘安とともに帰国した村橋久成は、戊辰戦争、函館戦争に従軍後、北海道にビール工場を誘致したが(札幌麦酒醸造所。現サッポロビール)、晩年は不遇で明治25年神戸にて行き倒れとなって発見された。使節団長であった新納は帰藩後家老、後に大島島司となり最後まで郷里薩摩のために尽くした。また、留学生塾頭の町田久成は、内務卿の大久保利通に仕え学術的に優れており、初代東京帝国博物館長(のちの東京国立博物館)となった。

渡米し世界の葡萄王となった長沢鼎

慶応3年(1867年)、森有礼、鮫島尚信、畠山義成、松村淳蔵、吉田清成、長沢鼎の6人は、アメリカに渡りハリスの営むブロクトンのコロニーで共同生活(ブドウ園)をしていたが、森と鮫島は翌年の明治元年帰国。畠山、吉田、松村は大学に学び、畠山と吉田は明治4年(1871年)に、松村は明治6年(1873年)に帰国した。一人残された長沢は明治8年(1875年)、カリフォルニアのサンタローザに移住、広大な敷地と多くの使用人を使い「葡萄王」となって米国に永住した。レーガンアメリカ大統領は来日した際、国会演説の中で、「長沢鼎は米国の生活を豊かにした。日本とアメリカの架け橋となった人物」と称賛した。

森有礼は駐米初代公使、一橋大学の前身商法講習所を創立、のちに初代文部大臣となったが、明治憲法発布記念式典当日暗殺された。鮫島尚信は寺島外務卿のもとで初代ヨーロッパ公使となり欧州交官の第1人者といわれたが、激務がたたりパリの大使館執務室で死亡、吉田清成は証券・銀行などの経済専門外交官となり日本外債発行に貢献。畠山義成は帰国後教育制度の改革にかかわり東京大学の前身である東京開成学校の初代校長となった。また、松村淳蔵は帰国後海軍兵学校校長となり、日本海軍の創建に貢献した。

イギリスからフランスへ渡った田中盛明と中村博愛は、帰国後、田中は日本の鉱山開発の第1人者として、生野銀山の鉱山長となり、中村はヨーロッパ各国の駐在外交官として活躍した。

国立博物館の創始者・町田久成は石谷領主

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2015.09.01
  • 著者:東川 隆太郎

留学生の選抜には、藩の洋学校である開成所における成績などのほか身分も考慮された。それら両方を備えた人物のひとりが町田久成だった。彼は開成所においては学頭でもあり、また石谷村(現在の鹿児島市石谷町)の領主でもあった。町田氏は島津氏の分家でもあり、代々家臣として仕えた。戦国期の町田家の当主・久倍は伊集院の地頭に任ぜられ、石谷村も領することになる。石谷村の石高は700石余りであったが、久成が活躍した幕末期には茶の生産が豊富な地域であったという。

さて肝心の町田久成は、26歳の若さで藩の大目付に就くなどした人物で、英国留学の経験は帰国後に博物館設立という形でも発揮される。明治政府において内務卿を勤めていた大久保利通への建白書には、博物館のみならず植物園や動物園の併設まで記されている。他にも外務関係で活躍することになるが、1889年(明治22年)に突然明治政府高官の職を辞し、剃髪して全国行脚を行う修業の世界に身を置くことになった。

最後には滋賀県の三井寺にて仏門に入り、僧侶として60歳の生涯を終えることになる。領主から中央政界での活躍、そして僧侶へと身を転じた人生は波乱万丈に映るが、領地であった石谷の一族の墓は、今も茶畑に囲まれる丘陵にあって静かに守られている。

留学生は英国をめざして

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2015.08.01
  • 著者:東川 隆太郎

1865年(元治2年)4月17日、羽島(現在のいちき串木野市羽島)を長崎から香港へと向かう蒸気船「オースタライエン号」で出航した留学生及び引率者19名は、異国行きを前に様々な思いを秘めながら南下していた。西欧諸国行きが初めてではない松木弘安こと寺島宗則は、留学生らに数々の諸事情を詳細に伝えていたことであろう。留学生らは、武士の魂でもある刀の所持は許されず、船内において箱に仕舞うことになっていた。また、髷も海外では異様であることから断髪することになっていた。武士として相当の覚悟が必要とされる船出であったことが想像される。

そのような中、4月21日の夕方、海外の寄港地としては初めてとなる香港に到着した。街にはまるで「星が雨降る様な光」を放つガス灯と西欧風の建造物が立ち並んでいた。こうした驚きは、次の寄港地であるシンガポールやムンバイなどでも連続していくことになる。ただ、驚くばかりでなく留学生らは西欧の植民地となったアジアの地域で、アジアの人々が西欧人にさげすまされる様子も目の当たりにする。英国への旅は留学生にとって、西欧に「学ぶ」だけでなく、これからの「日本」の在り方を熟考させられる機会にもなった。

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