島津久光の中央政界進出と薩長の対立

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2014.07.01

(著:鹿児島市維新ふるさと館特別顧問福田賢治氏)

1.久光の初めての率兵上京

無位無官で藩主でもない久光が1 千の兵を率い、前藩主島津斉彬の遺志である「京都守護と公武合体」を実現すべく、初めて入京したのが文久2 年(1862 年)4 月のことであった。朝廷から京都の治安維持を任された久光は、部下である薩摩藩の攘夷過激派を伏見の寺田屋で一掃したことから、朝廷・幕府の両者の信頼を一挙に得たのである。

2.久光の中央政界進出と幕政改革

朝廷、幕府の両政権から信頼を得た久光は、その勢いをもって幕政改革を建言、その意を汲んで朝廷は江戸へ勅使を派遣、一橋慶喜を将軍後見職に、越前藩主松平慶永(春嶽)を政治総裁職に据えるなど、幕政改革が実現した。久光一行はこの勅使に随行、江戸から帰る途中、横浜の生麦村でイギリス人殺傷事件「生麦事件」を起したのである。以後、薩摩は中央政界での主導権争いと薩英戦争への対応という二つの大きな問題を抱え、その対応に苦慮するのである。

3.薩長の対立と「八・一八の政変」

幕政改革は成功したかにみえたが、京都では朝廷の力が大きくなったことに威を得て、尊王攘夷派の公家や勤王の志士の勢力が強大化し、討幕の機運が一層高まっていった。尊王攘夷運動の中心勢力は、薩摩藩と主導権争いをしていた長州藩であった。薩英戦争への対応に追われ中央政治に力を向けられない薩摩に対し、京都で勢力を増した長州は、三条実美など朝廷内の攘夷派公家の勢力と組み、文久3 年(1863 年)8 月、天皇の大和行幸を機に天皇を押し立て、一挙に討幕の事を起そうと画策した。これを事前に察知した薩摩や会津が天皇に知らせたため天皇は驚き、これを阻止するよう勅命を出したのである。孝明天皇は、攘夷思想の持ち主ではあったが、過激な攘夷には反対であり、ましてや討幕などは意中になかったのである。薩摩と会津は、天皇の命により、同年8 月8 日、御所の警備にあたっていた長州藩士らを排除し、長州寄りの攘夷派公家を朝議からはずし、長州藩および攘夷派公家を京都から追放することを決定、いわゆるクーデターに成功したのである。これを「八・一八の政変」と言う。以後、長州は幕末まで京都への入京が禁止となったのである。また、三条実美など7 人の攘夷派公家も長州へと下った。これを「七卿落ち」という。


久光と慶喜の対立による「参予会議の崩壊」


1.久光三度目の率兵上京

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    生麦事件石碑
  • 多くの教訓を得た「薩英戦争」
    薩英戦争記念碑
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    島津久光像

「八・一八政変」によって、長州勢をはじめ京都から過激な攘夷派は排除されたが、これで政治が安定したわけではなかった。かえって長州は薩摩や会津への反感を募らせ、下駄に「薩賊会奸」と記し踏みつけるなど憎しみを一層増し、対立を強めていったのである。
この八・一八政変の後始末のため、久光に上京の要請が下った。久光は文久3 年(1863 年)9 月12 日、1 千5 百の兵を率いて上京したのである。そして11 月15 日、天皇から極秘に辰韓が下され、それを受けて久光は一橋慶喜、松平慶永(越前)、山内容堂(土佐)、伊達宗城(宇和島)などの諸候による会議を提案、小松帯刀を使者にして諸侯に上京を要請したのである。

2.参予会議の開催と「長崎丸事件」

久光の呼びかけにより上京した4 人の諸侯は、12 月4 日「参予」に任命された。無位無官の久光は翌年1 月「従四位下左近衛権少将」の官位を授与され参予となり、2 月「大隅守」も兼任、諸侯による「参予会議」が発足した。
同年2 月には将軍家茂も入京参内の後、家茂は参予に任命された諸侯が幕政に参加することを認め、老中部屋への出入りを認めた。一方、長州は「八・一八政変」を不満とし、朝廷に嘆願書を提出するための使者を大坂に派遣してきていたが、久光はこれを許さず、使者を帰国させるよう主張した。このため長州はさらに怒り、薩摩藩が幕府から借用して綿花の輸送に使用していた船「長崎丸」を下関で砲撃して撃沈、薩摩は優秀な船員28 人を失った。久光は激怒し、長州処分を強く主張するようになった。これを「長崎丸事件」といい、薩長の対立はますます激化していったのである。

3.久光と慶喜の対立と参予会議の崩壊

朝廷が久光の言いなりになり、参予会議の召集など主導権を久光にとられたと感じていた慶喜は、久光の動きを快とせず、当時問題となっていた横浜の鎖港問題では、慶喜自身開港の意思を持ちながら、あえて鎖港を主張、これに久光はじめ他の諸侯が反対、意見がまとまらず会議は紛糾した。これにより、久光が開国論者であるということが明るみになり、その結果久光は、天皇や朝廷からの信頼を失うはめになったのである。また、横浜問題を優先するという慶喜に対し、長州処分問題を優先しようとする久光とが対立、さらに、慶喜が久光や慶永らに対し侮辱的な言葉を発したこともあって、会議は結局分解し参予会議は失敗に終わったのである。以後、天皇や朝廷の信頼は慶喜の方に移っていくのである。一方久光は、小松帯刀と遠島生活から復帰させた西郷隆盛らに後事を託し、帰国したのである。

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