多くの教訓を得た「薩英戦争」

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2013.04.01

(著:鹿児島市維新ふるさと館特別顧問福田賢治氏)

  • 多くの教訓を得た「薩英戦争」
    薩英戦争記念碑
  • 多くの教訓を得た「薩英戦争」
    旧薩摩砲台跡
  • 多くの教訓を得た「薩英戦争」
    薩英戦争絵巻
    (鹿児島市維新ふるさと館所蔵)

<攘夷の不可能を知る>

今年は、「薩英戦争」150 周年の年にあたります。文久3 年(1863 年)7 月、薩摩藩は、前年8 月に起きた「生麦事件」に伴うイギリスとの賠償問題が決裂、7 月2 日から3 日にかけて鹿児島湾を舞台に、7 隻のイギリス艦隊と砲火を交えました。「薩英戦争」は、日本が欧米先進国と本格的に戦火を交えた初の戦いでもありました。薩摩は、開明的藩主島津斉彬の時代から「砲艦外交」の脅威を聞かされ、集成館事業を起こして備えていました。しかし、薩英戦争という実戦を通して、その威力をまざまざと見せつけられたことによって、下級武士までが「攘夷の不可能」を思い知らされました。それゆえ、薩英戦争は、その後の薩摩藩の方向性を決定づける大きな要因ともなりました。

<薩英戦争の原因となった「生麦事件」>

「生麦事件」とは、島津久光の行列が、横浜の生麦村(現横浜市鶴見区)にさしかかった際、女性1 人を含む4 人のイギリス人が馬で行列に乗り込んだため、供侍たちがイギリス人3 人を殺傷した事件です。イギリスは幕府に対し10万ポンド(40 万ドル)の賠償金を、薩摩には2 万5 千ポンド(10 万ドル)と犯人の引き渡し、及びイギリス士官の立会いのもとにこれを処刑することを要求してきました。

<交渉決裂から薩英戦争へ>

幕府は賠償金を支払いましたが、薩摩は応じませんでした。そのためイギリスは、軍艦7 隻をもって薩摩に直接交渉を迫ってきました。しかし、交渉は決裂、薩英戦争の火ぶたがきられました。薩摩藩は、台場を鹿児島城下沿岸に6 か所、対岸の桜島側に4 か所、合計10 か所設け、80~150 ポンド砲数門を含む86 門を備えて迎え撃ちました。イギリスはこの戦いで初めて実戦に使ったという最新式のアームストロング砲を含む89 門の砲で応戦しましたが、天候も悪く海も荒れ、湾の状況にも不案内なイギリス艦隊は、旗艦ユーリアラス号の艦長及び副艦長が直撃弾を受けて即死するという不運も重なり、艦隊は退却したのでした。イギリスの死傷者63 人に対し、薩摩は死傷者23 人でしたが、砲台はことごとく沈黙させられ、鹿児島城下の約500 軒余りが焼失、薩摩が誇る先進工業団地「集成館」も壊滅しました。

<富国強兵、殖産興業など近代化を加速>

薩英戦争は、世界に視野を広げ薩摩を近代化へ導くとともに、近代国家建設の意義と勇気を与えた大きな試練であったといえます。
以後、近代工業の大切さを痛感した薩摩は、「集成館事業」の再建充実とともに、以前にもまして新しい技術や文化の導入、人材育成のための留学生派遣など、近代化への基盤固めを確実に進めていきました。

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