新政府の始動と西郷・大久保

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2018.11.28

(文:鹿児島市維新ふるさと館 特別顧問 福田賢治氏)

○ 新しい国家の体制づくり
 王政復古を声高に発した朝廷、および薩長土肥を中心とする新政府の要人たちは、まだ戊辰戦争の完全な終結をみないうちに、新国家の体制づくりに取りかからねばならなかった。その中心は三条実美、岩倉具視、大久保利通、木戸孝允らであった。
 西郷はこの時期、専ら戊辰戦争終結に力を注いでいたが、会津、長岡、庄内と東北の雄藩が降服したことを受けて、東京に帰ってきた。東京では薩摩藩主の島津忠義が、あらたに新政府の軍務総督として任命され、天皇から佩刀も賜っていた。これを知った西郷は忠義に軍務総督を辞退させ、佩刀も返上させて忠義と共に鹿児島へ帰国、自らも中央政界から身を引いたのである。
 西郷は、当時、新政府の要人や軍事担当者など広範に亘り薩摩が主導していたが故に、世間では、「幕府は瓦解したが、今度は薩摩政府が誕生するのではないか」との風評があった。その疑念を払拭するとともに、新政府始動にあたっては、民衆を含めた新しい近代国家建設の出発点としたかったのである。
 西郷は以後、明治4年1月に上京するまで、政府の再三にわたる中央政界復帰要請にも関わらず、鹿児島に留まったのである。国が一つにまとまり、近代国家建設という「順聖院様(斉彬)の御深意」を達成し、これで「自分の使命は終わった」との思いがあったのであろう。 

○ 新政府の課題と中央政界への西郷呼び戻し
 しかし、政府の要人たちが西郷を野に置いておくはずもなく、旧来の主従関係に基づく地方政治から「中央集権国家」へと変貌するには、西郷は欠かせない重要な人物であった。新国家の体制づくりには、土地や人民を朝廷に還す「版籍奉還」、旧藩主や門閥派の影響力を排除するための「廃藩置県」、国家財政の安定化のための「地租改正」、国の防衛・治安維持のための「徴兵制度」や「警察制度」、国民の文化・教育向上のための「学校制度」、それに「産業の育成」と課題が山積していた。なかでも、最も重要な課題が「廃藩置県」であり、これを断行すれば、また全国的に大騒乱が起こると予想された。事実、明治4年7月の廃藩置県の実施については、政府部内でも激論が展開されたのである。
 こうした事態が予想されたため、明治3年1月大久保利通は、中央政界に西郷を引き戻すため鹿児島に帰国、久光と西郷の上京を掛け合ったが、久光は同意しなかった。西郷は日当山温泉で療養していたが、島津忠義がわざわざ日当山まで西郷を訪ね、「鹿児島の改革に力を貸して欲しい」と要請したため、鹿児島の藩政改革にかかわっていた。それ故、久光と西郷を中央政界に引き戻すには、どうしても久光の同意が必要だったのである。  

○ 大久保利通と久光の決別
 西郷本人も中央政界復帰の意思はなく、本人説得のために従弟の大山巌や弟の西郷従道も帰郷し説得に当たった。久光は新政府の欧化政策に不満を持っていたという。そのため大久保たちの説得工作は困難を極め、明治3年1月に帰国以来、9回にわたり久光と面会し激論を交わしたが失敗し上京へ戻ったが、久光説得には勅使を派遣する以外にないとして、再びその年の12月18日、岩倉具視を勅使とし、西郷と親しい山県有朋(長州)、川村純義(西郷従兄弟)を伴い鹿児島へ来た。勅使が来たとあっては久光も拒否できず、自分は病気のため来春上京すると返事、西郷の上京を許可した。こうして西郷引き出し問題は、約1年を要してやっと実現した。しかし、それまで主従関係で固く結ばれ、安政6年(1860年)から10年間続いた久光と大久保の信頼関係も、この件をきっかけに完全に瓦解し、以後、大久保の心は久光から完全に離れていったのである。

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