パリ万国博覧会への初参加(その3)

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2018.02.26

(文:鹿児島市維新ふるさと館 特別顧問 福田賢治氏)

○パリ万博に参加した薩摩藩と佐賀藩

幕府の呼びかけにも関わらず、慶応3年(1867年)のパリ万国博覧会に出品したのは、幕府以外では、薩摩藩と佐賀藩のみであった。薩摩は早くからパリ万博への参加を決定し、準備を進めていた。薩摩の出品物は約四百箱で、その主なものは、薩摩焼、竹細工品、茶、砂糖、泡盛(米焼酎)などであった。佐賀藩は陶磁器など約五百箱、商人として唯一参加した埼玉出身の江戸商人清水卯三郎は、四万二千両相当の額の品を出品したという。
幕府のパリ万博への参加決定が遅れたこともあって、薩摩と幕府との溝が深まり、同じ日本からの出品にも関わらず、物品陳列場の表札記名やブースの別枠確保が問題となり、さらに、薩摩が「薩摩琉球国勲章」を作成してフランス公官に贈ったことから、フランスでは薩摩の名声がたかまり、一層幕府との溝が深まったのであった。
幕府の向山全権公使は、薩摩の勲章があまりにも話題となったので、幕府も勲章を作成して配るよう上申したが間に合わず、悔しがったという。こうしたことから、欧州では日本がドイツ連邦政府と同様に、連邦制になっているとみなす国が増え、欧州における幕府の権威は著しく失墜したといわれる。

○薩摩言葉が唯一英語になった「醤油」(SOY SAUCE)

昔から「醤油」のことを鹿児島では「ソイ」という。パリ万博では薩摩は醤油も出品し、「SOY」と標示して売り出したことから、醤油のことを「SOY」と呼ぶようになったといわれ、薩摩言葉が唯一英語になったものである。
余談であるが、薩摩では文久3年(1863年)、生麦事件がもとで薩英戦争が始まったが、その後、薩摩とイギリスは横浜で講和条約を結んだ。その際、薩摩はイギリスに対し「温州みかん」を贈った。イギリスの人々はこれを食して、その美味さに驚き大変喜んだという。以来、「温州みかん」のことを英語で「SATSUMA」(サツマ)と呼ぶようになったのである。

○モンブランのその後

薩摩はモンブランの協力もあって欧州における一定の評価を高めたが、モンブランは、ベルギー商社設立が不調に終わったことから、その代償として今度は薩摩に対し、小銃5千挺、大砲20門及び軍服の売り込みをはかったため、薩摩はこれを断った。この時期、薩摩はイギリスと懇意にしていたこともあって、これ以上フランスとの緊密化は、イギリスとの友好関係にひびが入ることを懸念し、モンブランとも距離をおくようになったのである。
モンブランは、明治になると、明治政府の代理公使兼総領事としてパリ公館を開設し、薩摩の前田正名を雇い、明治3年に日本公使館が開設されるまで外交事務を掌ったが、ここに初代の駐仏弁理公使として薩摩の英国留学生の一人である鮫島尚信が赴任してきたこともあって、モンブランは辞任したのである。以後、日本も西洋文明の賞賛だけでなく、西洋を冷静な目で見るようになり、英国留学生の力がようやく発揮される契機となったのである。

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