パリ万国博覧会への初参加(その2)

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2017.12.08

(文:鹿児島市維新ふるさと館 特別顧問 福田賢治氏)

○幕府のパリ万博参加決定の遅れ

フランスは幕府に対して、ロニーという外務省係官を通して慶応元年(1865年)秋以来、パリ万博への出品要請をしてきていたが、参加については消極的であった。ところが薩摩藩は、薩摩藩英国留学生を引率した五代友厚などを通して、モンブランが強く参加を勧めたこともあって、パリ万博への出品を早く決定し、全権使節として家老の岩下佐次右衛門(方平)らを派遣することになった。そのため、幕府も傍観するわけにもいかなくなり、急ぎ幕府も参加を決定するとともに、諸大名や商人たちへも参加の呼びかけをすることになったのであるが、急なことでもあり、薩摩以外では、佐賀藩と埼玉の商人清水卯三郎だけの参加となったのであった。

○幕府は薩摩藩に2か月遅れてパリ到着

薩摩藩一行は、全権の岩下左次右衛門、それに側役格の市来六左衛門政清(西郷の妹コトの夫)、博覧会担当の野村宗七(盛秀)ら5人と、通訳の堀壮十郎(孝之)、大工の鳥丸啓介、留学生の岩下長十郎(方平の息子)、英国人のハリソンとライルホームの総勢11人が派遣された。
一行が薩摩を出発したのは、慶応2年(1866)年11月10日(新暦12月16日)で、パリに到着したのが翌年の慶応3年(1867年)1月2日であった。幕府がこうした薩摩の動きを知ったのは、薩摩がパリに到着した後であり、あわててフランス政府に抗議するとともに、将軍の名代として清水昭武(慶喜の弟)を派遣し、随行者として外国奉行の向山一履(隼人正)、同支配組頭の田辺太一、昭武の傳役の山高信離(岩見守)らを派遣したが、一行がパリに到着したのは、薩摩に遅れること約2か月後の陰暦3月7日(新暦4月11日)のことであった。昭武は万博参加後の5年間の留学が主目的であった。
モンブランは当初、昭武の世話役として幕府に採用してもらう心つもりであったが、これを断られたため、幕府から薩摩寄りに変心したともいわれている。

○幕府とは別個の出品ブースを確保

モンブランは、33才の若さであったが、幕府に先立って薩摩のためにフランス政府に働きかけ、世話役としての役割をよく果たした。新聞などを使って大いに宣伝し、あたかも日本には幕府と薩摩政府があり、対等であるかの如く論じさせたのであった。
また、幕府より先に交渉を始めた薩摩は、幕府とは別区画で独立した出品ブースを確保するとともに、呼称も「薩摩琉球国政府」としていたが、幕府の抗議により呼称だけは「日本薩摩太守政府」と改め、幕府は「日本大君政府」として出店した。また、モンブランの勧めもあって、フランス国民が勲章好きということを利用し、「薩摩琉球国勲章」を作り、フランス皇帝をはじめ、政府高官に贈呈したため、各国の目が薩摩藩に集中し話題となったのである。

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