トピックス

元島民が語る軍艦島物語

  • イベント
  • 2015.01.19
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「明治日本の産業革命遺産」の構成資産である端島、通称”軍艦島”。元島民である軍艦島ガイドの坂本道徳さんのトークショーです。※要事前申込

※お申込み先や詳しい情報は、こちらのホームページをご覧ください。

日時

平成27年1月19日(月曜日)18:00~19:45

会場

マルヤガーデンズ7F garden7

参加費

無料

問合せ先

まちづくり地域フォーラム・かごしま探検の会

電話:099-295-3757、メール:ishin150@tankennnokai.com

幕末キネマ【幕末太陽傳】上映会

  • イベント
  • 2014.12.20

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日活のスターが結集した名作「幕末太陽傅」を限定上映します。

※お申込み先や詳しい情報は、こちらのホームページをご覧ください。

日時

平成26年12月20日(土曜日)13:00~16:30

・受付開始:13:00~、映画上映:13:30~15:20、トークショー:15:30~16:30

会場

マルヤガーデンズ7F ガーデンズシネマ

参加費

500円(映画料金、お茶代含む)

募集人員

40名※応募者多数の場合は抽選

応募締切

平成26年12月19日(金)

問合せ先

まちづくり地域フォーラム・かごしま探検の会

電話:099-295-3757、メール:ishin150@tankennnokai.com

篤姫の鹿児島時代はどうだったのだろう

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2014.12.01

 大河ドラマの放映によって全国区の知名度を得た篤姫。徳川将軍家に嫁いでからの生活ぶりに関しては、様々な史料にのこり分かっていることも多かったが、鹿児島時代の記録は少ないとされていた。そのなかで近年史料の解析などによって、将軍家へのお輿入れを前提として島津本家の養女となり、鹿児島城こと鶴丸城で過ごしていた約2ヶ月間の生活ぶりが多少なりともわかってきた。わかったのは大河ドラマ放映後のことであったため、そのことがドラマに反映されることはなかったが、鶴丸城における篤姫の生活が、城外への外出があったり習い事をしたりなどの生き生きした日々であったようである。

 篤姫の鶴丸城入りは嘉永6(1853)年6月5日で、江戸へと出発したのは8月21日のこと。これにあわせるかのように、養父である藩主島津斉彬も同時期に江戸からお国入り、鶴丸城に入っている。季節は夏ということもあり、史料によると、生家の今和泉島津家から頻繁にスイカの差し入れが行われている。季節物のスイカは美味であっただろう。また、将軍家へのお興し入れに必要となる教養として、お香を習っている。外出は頻繁ではなかったが、別邸のある磯に斉彬に会うために出かけたり、またもうひとつの別邸のある玉里にも出向いたりしている。このように篤姫は、鹿児島での最後の日々を鶴丸城で過ごし、江戸へと向かった。

第一次長州征伐と西郷隆盛

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2014.11.26

(著:鹿児島市維新ふるさと館特別顧問福田賢治氏)

1 「池田屋事件」から「禁門の変(蛤御門の変)」へ

文久3年(1863)8月の「八・一八政変」以来、京都を追われた長州藩は、薩摩や会津による策謀によるものだとして、「薩賊会奸」と称し、対立を一層強めていった。長州はその後勢力挽回のため朝廷に対し、藩主父子の無実と七卿の赦免を願ったが許されなかった。さらに翌年の元治元年6月5日、尊王攘夷派の志士たちが、京都の池田屋で新撰組に襲撃される「池田屋事件」が発生したことから、長州藩では藩論が割れたものの、過激派は強引に京都に兵を進めた。桂小五郎(木戸孝允)や高杉晋作らは反対したが、激派の来島又兵衛や久坂玄端らは同年7月19日、御所を警固していた薩摩や会津・桑名藩を主とする藩兵と衝突、「禁門の変」(蛤御門の変)が勃発した。

長州勢は蛤御門を守る会津藩兵に対し優勢であったが、乾の御門を守備していた西郷隆盛率いる薩摩藩が加勢に駆けつけて長州勢を破り、来島又兵衛は戦死した。また、鷹司邸付近では久坂玄端の隊が奮闘したが及ばず、久坂も自刃し長州勢は敗退した。戦いは1日で決したが、京の町は3日間燃え続け、公卿屋敷数十軒と民家2万8千戸が焼失し、避難民があふれた。

2 第一次長州征伐と西郷隆盛の斡旋収拾

この勢いを機に、幕府は長州藩を一気につぶそうと計画、天皇の勅命をいただき、8月2日、諸藩に対し長州征討の命を下し21藩がこれに備えた。こうした最中、8月5日には、長州藩が前年、下関砲台から外国船を無差別攻撃したことに対する報復として、英、米、仏、蘭の四国連合艦隊が下関を攻撃、約1時間後には完全に砲台は沈黙させられ、台場も占拠された。

9月下旬、長州藩征討総督に尾張藩主徳川慶勝、総督参謀に西郷隆盛が任命されたが、西郷はそれ以前、9月15日に幕臣の勝海舟と会談、「幕府はすでに国内統一の力を失っているので、雄藩諸侯が同盟して国の政治を動かすほかない」という勝の意見を聞き、薩摩藩も諸侯会議が成功しないときは、武力討幕へと方針転換するよう大久保に書簡を送っている。それゆえ西郷は長州征討に当たり、「戦わずして収める」ことをめざした。西郷は毛利一族の岩国藩と連携し、①長州藩自身の手による「禁門の変」の責任者(家老たち)の処罰、②毛利藩主父子の詫び状提出、③長州にいる5人の公卿の大宰府への移居、④山口城の取り壊し、などを条件に攻撃を中止し、事態の収拾に努め、徳川慶勝征討総督もこれを了承したのである

蛤御門

蛤御門

開成所設立解説映像

  • トピックス
  • 2014.11.26

元治元(1864)年、前年に起きた「薩英戦争」で西洋諸国の強大さを目の当たりにした薩摩藩は、西洋の進んだ知識と技術を学ぶために「開成所」を設立しました。

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