明治維新と薩摩藩

明治維新を迎えることができなかった鹿児島人

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2014.10.01
  • 著者:東川 隆太郎

 明治維新という大きな政治・社会変革の立役者とされる薩摩藩。新しく樹立された新政府において、数多くの鹿児島人たちが要職に就き、「万国対峙」や「四民平等」の目標に向けて活躍した。その代表が西郷隆盛や大久保利通だろう。ただ、同時期に生を受け同じ志を持ちながら、明治維新を迎えることなく亡くなった者も数多くいる。

 まず万延元(1860)年、江戸城の桜田門外において大老・井伊直弼の暗殺に加わった有村雄助、次左衛門兄弟(生家は高麗町)。ふたりとも自刃している。
 文久2(1862)年には、島津久光の上洛にあわせ、京都所司代など襲撃のための挙兵を計画した薩摩藩士らが、伏見の寺田屋において、鎮撫の薩摩藩士らと同士討ちとなる事件が発生する。その際、尊王の志篤い有馬新七(加治屋町にて生活)らが激闘の末亡くなった。
 喜入郷の出身の伊牟田尚平は、鳥羽・伏見の戦いのきっかけなった、庄内藩らによる江戸の薩摩藩邸焼き打ちを誘導した人物。戊辰戦争でも西郷らとともに従軍するはずであったが、京都や大津で発生した辻斬り強盗の嫌疑をかけられ自刃している。維新前夜ともいえる時期のことであった。
 他にも数多くの薩摩藩士らが、寺田屋事件や薩英戦争、江戸薩摩藩邸の焼き打ち、鳥羽・伏見の戦いなどで命を落としている。変革の立役者である薩摩藩にとっても、維新への道は決して平坦なものではなかった。そして時代が明治を迎えたのちも、鹿児島は西南戦争という多大な犠牲と悲劇を生んだ争いを経験するのである。

洋学所「開成所」の開設

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2014.10.01
  • 著者:福田 賢治

(著:鹿児島市維新ふるさと館特別顧問福田賢治氏)

1.幕府の「開成所」

幕末、ペリー来航以来、幕府は外国の文化や技術などの導入を必要とする上から、安政3年(1856年)江戸神田小川町に翻訳や辞書の発行などを主務とする洋学校「蕃書調所」を開設した。ここは外国使節との応接所にもなったが、その後、文久2年(1862年)神田一ツ橋門外に移設、名称も「洋書調書」と改められた。さらに翌年にはこれを「開成所」と改め、蘭学中心から次第に英語、仏語、独語などを加え、西洋の新しい学問研究へと進み、後の東京帝国大学の一部となった。

2.薩摩の「開成所」

薩英戦争により攘夷の不可能を知った薩摩藩でも、西洋の進んだ技術や文化を導入する機運が急速に高まり、外国語修得の必要を感じたことから、幕府の洋学所「開成所」に倣い、鹿児島城下の小川町庄内屋敷(都城屋敷)跡に、元治元年(1864年)「開成所」を開設、本格的に西洋の学問を教えたのである。薩摩では、洋学校の設立構想はすでに島津斉彬時代からあり、斉彬は石河確太郎らに命じていたが、斉彬が急死したために途絶えていたのである。
庄内屋敷は海岸に面した広い屋敷であり、学問だけでなく海陸軍の調練場としても都合がよかったため、庄内屋敷を祇園之洲(今の石橋公園付近)にあった重富屋敷に移転させ、その跡地に建設したのであった。

3.開成所の優れた人物を「薩摩藩英国留学生」として派遣

この開成所教授には、斉彬の集成館事業を手がけた蘭学者の八木称平、石河確太郎らをはじめ、外部からは、英語学者の前島密(日本郵便の父)やジョン万次郎(中浜万次郎)なども招かれた。生徒は藩内から選ばれた優れた人物60~70人が学び、それぞれの等級ごとに手当も支給されていた。教科は、英語、蘭語のほか海陸軍砲術、兵法、数学、物理、医学、地理、天文学、測量術、航海術などの西洋の進んだ技術や学問の修得であった。

薩摩は慶応元年(1866年)、イギリスへ4名の使節団と15名の留学生を送りこみ、ロンドン大学などで学ばせるが、その人選にあたっては、開成所出身の優秀な人物を中心に選出したのである。しかし、この開成所も幕末の急激な世情の変化に伴う藩の軍制改革によって、軍にかかわる教科が分離し、単なる教科学習の域にとどまったため、後に藩校「造士館」に移ることになるが、薩摩藩英国留学生として派遣された人々の多くは、その後、近代日本建設のあらゆる分野でめざましい活躍をみせたのである。

島津久光の中央政界進出と薩長の対立

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2014.07.01
  • 著者:福田 賢治

(著:鹿児島市維新ふるさと館特別顧問福田賢治氏)

1.久光の初めての率兵上京

無位無官で藩主でもない久光が1 千の兵を率い、前藩主島津斉彬の遺志である「京都守護と公武合体」を実現すべく、初めて入京したのが文久2 年(1862 年)4 月のことであった。朝廷から京都の治安維持を任された久光は、部下である薩摩藩の攘夷過激派を伏見の寺田屋で一掃したことから、朝廷・幕府の両者の信頼を一挙に得たのである。

2.久光の中央政界進出と幕政改革

朝廷、幕府の両政権から信頼を得た久光は、その勢いをもって幕政改革を建言、その意を汲んで朝廷は江戸へ勅使を派遣、一橋慶喜を将軍後見職に、越前藩主松平慶永(春嶽)を政治総裁職に据えるなど、幕政改革が実現した。久光一行はこの勅使に随行、江戸から帰る途中、横浜の生麦村でイギリス人殺傷事件「生麦事件」を起したのである。以後、薩摩は中央政界での主導権争いと薩英戦争への対応という二つの大きな問題を抱え、その対応に苦慮するのである。

3.薩長の対立と「八・一八の政変」

幕政改革は成功したかにみえたが、京都では朝廷の力が大きくなったことに威を得て、尊王攘夷派の公家や勤王の志士の勢力が強大化し、討幕の機運が一層高まっていった。尊王攘夷運動の中心勢力は、薩摩藩と主導権争いをしていた長州藩であった。薩英戦争への対応に追われ中央政治に力を向けられない薩摩に対し、京都で勢力を増した長州は、三条実美など朝廷内の攘夷派公家の勢力と組み、文久3 年(1863 年)8 月、天皇の大和行幸を機に天皇を押し立て、一挙に討幕の事を起そうと画策した。これを事前に察知した薩摩や会津が天皇に知らせたため天皇は驚き、これを阻止するよう勅命を出したのである。孝明天皇は、攘夷思想の持ち主ではあったが、過激な攘夷には反対であり、ましてや討幕などは意中になかったのである。薩摩と会津は、天皇の命により、同年8 月8 日、御所の警備にあたっていた長州藩士らを排除し、長州寄りの攘夷派公家を朝議からはずし、長州藩および攘夷派公家を京都から追放することを決定、いわゆるクーデターに成功したのである。これを「八・一八の政変」と言う。以後、長州は幕末まで京都への入京が禁止となったのである。また、三条実美など7 人の攘夷派公家も長州へと下った。これを「七卿落ち」という。


久光と慶喜の対立による「参予会議の崩壊」


1.久光三度目の率兵上京

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    生麦事件石碑
  • 多くの教訓を得た「薩英戦争」
    薩英戦争記念碑
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    島津久光像

「八・一八政変」によって、長州勢をはじめ京都から過激な攘夷派は排除されたが、これで政治が安定したわけではなかった。かえって長州は薩摩や会津への反感を募らせ、下駄に「薩賊会奸」と記し踏みつけるなど憎しみを一層増し、対立を強めていったのである。
この八・一八政変の後始末のため、久光に上京の要請が下った。久光は文久3 年(1863 年)9 月12 日、1 千5 百の兵を率いて上京したのである。そして11 月15 日、天皇から極秘に辰韓が下され、それを受けて久光は一橋慶喜、松平慶永(越前)、山内容堂(土佐)、伊達宗城(宇和島)などの諸候による会議を提案、小松帯刀を使者にして諸侯に上京を要請したのである。

2.参予会議の開催と「長崎丸事件」

久光の呼びかけにより上京した4 人の諸侯は、12 月4 日「参予」に任命された。無位無官の久光は翌年1 月「従四位下左近衛権少将」の官位を授与され参予となり、2 月「大隅守」も兼任、諸侯による「参予会議」が発足した。
同年2 月には将軍家茂も入京参内の後、家茂は参予に任命された諸侯が幕政に参加することを認め、老中部屋への出入りを認めた。一方、長州は「八・一八政変」を不満とし、朝廷に嘆願書を提出するための使者を大坂に派遣してきていたが、久光はこれを許さず、使者を帰国させるよう主張した。このため長州はさらに怒り、薩摩藩が幕府から借用して綿花の輸送に使用していた船「長崎丸」を下関で砲撃して撃沈、薩摩は優秀な船員28 人を失った。久光は激怒し、長州処分を強く主張するようになった。これを「長崎丸事件」といい、薩長の対立はますます激化していったのである。

3.久光と慶喜の対立と参予会議の崩壊

朝廷が久光の言いなりになり、参予会議の召集など主導権を久光にとられたと感じていた慶喜は、久光の動きを快とせず、当時問題となっていた横浜の鎖港問題では、慶喜自身開港の意思を持ちながら、あえて鎖港を主張、これに久光はじめ他の諸侯が反対、意見がまとまらず会議は紛糾した。これにより、久光が開国論者であるということが明るみになり、その結果久光は、天皇や朝廷からの信頼を失うはめになったのである。また、横浜問題を優先するという慶喜に対し、長州処分問題を優先しようとする久光とが対立、さらに、慶喜が久光や慶永らに対し侮辱的な言葉を発したこともあって、会議は結局分解し参予会議は失敗に終わったのである。以後、天皇や朝廷の信頼は慶喜の方に移っていくのである。一方久光は、小松帯刀と遠島生活から復帰させた西郷隆盛らに後事を託し、帰国したのである。

日本吹奏楽の始まりと薩摩

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2014.04.01
  • 著者:福田 賢治

(著:鹿児島市維新ふるさと館特別顧問福田賢治氏)

1.いち早く西洋音楽を導入した薩摩

日本で最初に西洋音楽を導入し、吹奏楽を始めたのは薩摩の軍楽隊でした。薩摩は明治2年、軍楽伝習生30人余りを横浜に派遣、イギリスの軍楽隊長ウイリアム・フェントンから西洋音楽を習います。これは、西洋音楽を日本人が本格的に習った始まりでした。幕末に鼓笛隊はありましたが、吹奏楽はありませんでした。開国により、国家間の義礼式で国旗を掲げ、国歌を演奏するようになりましたが、日本には島津斉彬が発案した「日の丸」が、国旗としての役割を果たしてはいたものの、国歌はありませんでした。そのため、薩摩では、早くから音楽の必要性を感じていたといわれています。 そこで、明治2年、薩摩の歩兵隊長大山巌などが兵を率いて上京した際、イギリス領事館に依頼して、軍楽鼓笛隊を中心に人選した伝習生に、西洋音楽を習わせました。

2.横浜「妙香寺」を拠点に猛練習

当初は楽譜も読めず、また楽器もなく、竹や鋳物で作った間に合わせの楽器ということもあって上達せず、フェントンからもさかんに叱られました。しかし、薩摩が注文していた新しい楽器がイギリスから届くと、みちがえるようにめきめきと上達したといいます。こうして日本で最初の吹奏楽団が誕生したのでした。かつて、その練習所であった横浜の「妙香寺」の境内には、現在、日本吹奏楽指導者協会によって建立された「日本吹奏楽発祥地」という記念碑が建てられています。また、その横には、「国歌君が代発祥地」という碑も建てられています。これは、日本最初の「君が代」の曲を、薩摩の軍楽隊が演奏練習したことによるものです。

3.日本最初の「君が代」演奏

明治3年、フェントンが「日本には国歌がないので、歌詞があれば作曲してやる」といったことから、大山巌らが相談し、薩摩琵琶曲の「蓬莱山」の一節から「君が代」の歌詞を選び、フェントンに渡しました。「君が代」は、もともと「古今和歌集」にあり、薩摩では謡曲、筝曲、薩摩琵琶曲、サムライ踊りなど身近に使われていました。フェントンはその歌詞に曲をつけ、薩摩の軍楽隊が練習し、向島での調練の際、明治天皇の前で披露しました。これが、日本最初の「君が代」で、西洋調の曲でした。しかし、当時、西洋音楽を聴きなれない日本人にとっては馴染めなかったため、明治13年、楽曲の改訂委員会がもたれ、歌詞はそのままにして日本調を取り入れた現在の「君が代」に変わりました。

4.「文化の国」薩摩

当時の指揮者は薩摩の鎌田新平や西謙蔵でした。以後、この伝習生の中から、陸・海軍軍楽隊長など、日本の吹奏楽及び西洋音楽を牽引する数々の指導者が生み出されました。薩摩と言えば「武の国」というイメージが強いですが、日本近代化の先駆けとなり、現在、世界遺産登録をめざす島津斉彬の「集成館事業」をはじめ、音楽、洋画、医学、そして国旗「日の丸」や国歌「君が代」の発祥など、薩摩は「文化の国」でもあるといえます。

幕末の思想「開国と攘夷」

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2013.12.01
  • 著者:福田 賢治
  • 多くの教訓を得た「薩英戦争」
    薩英戦争記念碑
    (祇園之洲公園内)
  • 多くの教訓を得た「薩英戦争」

    薩英戦争に使用された80ポンド(36㎏)
    の主力砲(薩藩海軍史)

1.開国に反対した理由とは

幕末にペリーが来航して以来、「攘夷か、開国か」の議論が全国に広がり国論を二分した。当時、開国に反対した理由の第一は、開国による貿易の利は、幕府の独占的利益となったからである。第二に、国内の物資が外国に流れ、国内の物価上昇を招いたからである。第三は、当時、国内における金と銀の交換比率は1対5であったが、外国では1対15であり、日本において銀貨5枚で得た金を上海などで交換すると銀貨15枚となり、およそ3倍の儲けとなったのである。この結果、日本の金が外国に流れ、国内の物価上昇の原因ともなった。しかし、最も大きな理由は、当時の孝明天皇が「攘夷思想」の持ち主であったからである。それ故、「尊王」を唱えれば唱えるほど「攘夷」も強調され、幕末、勤王の志士たちによって「尊王攘夷」が一層強く叫ばれるようになったのである。

2.薩英戦争で攘夷の不可能を悟った薩摩

琉球貿易や密貿易をしていた薩摩の本音は「開国」であった。また、「挙藩一致、どこまでも御所を守れ」という島津斉彬の遺言もあり、「尊王」は強く唱えても、「攘夷」と正面きって唱えることには抵抗があった。実際「薩英戦争」を経験したことによって、薩摩では下級武士にいたるまで攘夷の不可能を知ったのである。中央政界で薩摩と主導権争いをしていた長州藩は、こうした薩摩の事情を察知し、「尊王攘夷」を唱えることによって薩摩を牽制したともいわれる。

3.「攘夷思想」の起こりは「中華思想」

「攘夷思想」は、もともと中国の儒教思想からでたもので、中国の「中華思想」に始まるといわれる。つまり、中国に古代文明が発達したことから、中国こそはすべての文明文化の中心であり、その他の国々は「夷狄(いてき)」、つまり野蛮な国であるとする「中華思想」の考えから生まれたもので、これが儒教思想の中に根付き、儒学とともに日本に入ってきたといわれている。古来、中国は広い国土を抱えその中央地域は豊かであるが、周辺地域、特に北方や西方は山岳地帯や寒冷地、砂漠地帯など厳しい環境におかれた地域が多い。加えて、世界で最も多くの異民族をかかえた多民族国家なのである。そのため、周辺地域の民族は、常に豊かな中央部に進出しようと企て、民族間の争いが絶えず、過去において様々な民族が王朝建国の争いをしてきた歴史を持つ。王朝が変わるごとに、その保持のため、外部からの侵入者を「夷狄」として排斥する思想が「攘夷思想」といわれるものである。

4.官学とした「儒学思想」で滅んだ幕府

幕末、攘夷思想をもった勤王の志士といわれる人々の多くは、攘夷を説く水戸藩の藤田東湖や戸田忠太夫など「水戸学」といわれる人からで学んだか、またはその流れを汲む人たちである。「儒学」、中でも「朱子学」は、江戸時代に幕府の官学として栄えたものであるが、その儒学から生れた「攘夷思想」が、幕末には倒幕運動の中心思想になったというのは、まことに皮肉なものである。

薩英戦争に対するイギリスの反響

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2013.07.01
  • 著者:

著:鹿児島市維新ふるさと館特別顧問 福田賢治氏)

  • 多くの教訓を得た「薩英戦争」
    薩英戦争記念碑
  • 多くの教訓を得た「薩英戦争」
    旧薩摩砲台跡
  • 多くの教訓を得た「薩英戦争」
    薩英戦争絵巻
    (鹿児島市維新ふるさと館所蔵)

今から150年前の薩英戦争は、イギリス本国ではどのような反響があったのでしょうか。文久2年(1862年)、生麦事件で暗殺されたリチャードソンは一人息子でした。彼の父親が事件発生を知ったのは、事件発生から2か月後の新聞報道でした。父親は、外務卿のラッセル氏に問い合わせの手紙を書きましたが、まだ詳細がつかめていない旨の返事をもらいます。新聞報道から20日後にやっと日本のニール代理公使から事件概要の書簡が外務省に届けられました。

イギリスでは、薩摩に関する情報はほとんどなく、報復のための基礎的資料にも乏しいため、最悪の場合は「交戦もやむなし」との方針だったようです。事件発生から約3か月を経過して、やっと駐日代理公使ニールに次のような指示を与えました。薩摩に対し、犯人の処刑と賠償金2万5千ポンド(10万ドル)の支払いを要求し、もし薩摩がそれを拒み、又は引き延ばした場合は相応の措置をとることの指示でした。

こうしたイギリスの再三の要求にも応じなかった薩摩に対し、イギリスは7隻の艦隊を鹿児島に派遣、さらに交渉を重ねましたが決裂し交戦となりました。暴風雨のうえに、旗艦ユーリアラス号の艦長、副艦長が直撃弾を受け即死するなど悪条件も重なり、退却せざるをえませんでした。

イギリスは、「薩摩は九州島の西南の端」との情報程度しかなく、居城の砲撃か、又は港の封鎖かを提督らの判断に任せるとの指示でした。当時はまだ山川湊の海図しかなく、鹿児島湾内の水深を測りながらの航行でした。測量専門技師をわざわざ上海から呼び寄せ、さらに薩摩に来たことのある日本人水先案内人を横浜で雇いました。案内人から、谷山沖に「七ツ島」があると聞き、そのどこかの島に7隻の軍艦が停泊できると思っていましたが、七つの小さな岩が海中から突き出ているだけだったことに驚いています。「沖小島」を「ニール島」、桜島の小池海岸周辺を「ユーリアラス湾」、鹿児島湾の「神瀬」を測量技師パーカーの名から「パーカー瀬」と名付けています。

戦争の結果はイギリス本国に報告されました。ビクトリア女王は交戦になるのではないかと懸念していたことが現実となり、英国議会の開会挨拶の中で、鹿児島市民に多大な被害を与えたことに対し遺憾の意を表明しています。イギリス国内においては、英国艦隊の行動を批難した住民の抗議集会などがあり、各地で批難の決議や書簡が政府や報道機関に寄せられています。交戦時に砲台を壊滅する必要はあっても、市街地を焼き払い、一般市民に多大な被害を与える行為は許せないとの声であり、人道的な立場からの深い同情の念が示されたものでした。イギリス艦隊が、再び鹿児島砲撃に向かわなかったのは、こうしたイギリス本国の事情があったからだといえます。

多くの教訓を得た「薩英戦争」

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2013.04.01
  • 著者:

(著:鹿児島市維新ふるさと館特別顧問福田賢治氏)

  • 多くの教訓を得た「薩英戦争」
    薩英戦争記念碑
  • 多くの教訓を得た「薩英戦争」
    旧薩摩砲台跡
  • 多くの教訓を得た「薩英戦争」
    薩英戦争絵巻
    (鹿児島市維新ふるさと館所蔵)

<攘夷の不可能を知る>

今年は、「薩英戦争」150 周年の年にあたります。文久3 年(1863 年)7 月、薩摩藩は、前年8 月に起きた「生麦事件」に伴うイギリスとの賠償問題が決裂、7 月2 日から3 日にかけて鹿児島湾を舞台に、7 隻のイギリス艦隊と砲火を交えました。「薩英戦争」は、日本が欧米先進国と本格的に戦火を交えた初の戦いでもありました。薩摩は、開明的藩主島津斉彬の時代から「砲艦外交」の脅威を聞かされ、集成館事業を起こして備えていました。しかし、薩英戦争という実戦を通して、その威力をまざまざと見せつけられたことによって、下級武士までが「攘夷の不可能」を思い知らされました。それゆえ、薩英戦争は、その後の薩摩藩の方向性を決定づける大きな要因ともなりました。

<薩英戦争の原因となった「生麦事件」>

「生麦事件」とは、島津久光の行列が、横浜の生麦村(現横浜市鶴見区)にさしかかった際、女性1 人を含む4 人のイギリス人が馬で行列に乗り込んだため、供侍たちがイギリス人3 人を殺傷した事件です。イギリスは幕府に対し10万ポンド(40 万ドル)の賠償金を、薩摩には2 万5 千ポンド(10 万ドル)と犯人の引き渡し、及びイギリス士官の立会いのもとにこれを処刑することを要求してきました。

<交渉決裂から薩英戦争へ>

幕府は賠償金を支払いましたが、薩摩は応じませんでした。そのためイギリスは、軍艦7 隻をもって薩摩に直接交渉を迫ってきました。しかし、交渉は決裂、薩英戦争の火ぶたがきられました。薩摩藩は、台場を鹿児島城下沿岸に6 か所、対岸の桜島側に4 か所、合計10 か所設け、80~150 ポンド砲数門を含む86 門を備えて迎え撃ちました。イギリスはこの戦いで初めて実戦に使ったという最新式のアームストロング砲を含む89 門の砲で応戦しましたが、天候も悪く海も荒れ、湾の状況にも不案内なイギリス艦隊は、旗艦ユーリアラス号の艦長及び副艦長が直撃弾を受けて即死するという不運も重なり、艦隊は退却したのでした。イギリスの死傷者63 人に対し、薩摩は死傷者23 人でしたが、砲台はことごとく沈黙させられ、鹿児島城下の約500 軒余りが焼失、薩摩が誇る先進工業団地「集成館」も壊滅しました。

<富国強兵、殖産興業など近代化を加速>

薩英戦争は、世界に視野を広げ薩摩を近代化へ導くとともに、近代国家建設の意義と勇気を与えた大きな試練であったといえます。
以後、近代工業の大切さを痛感した薩摩は、「集成館事業」の再建充実とともに、以前にもまして新しい技術や文化の導入、人材育成のための留学生派遣など、近代化への基盤固めを確実に進めていきました。

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