明治維新と薩摩藩

イギリス公使館書記官アーネスト・サトウと西郷

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2017.05.01
  • 著者:東川 隆太郎

イギリス公使館の通訳として幕末から明治にかけての日本に滞在したアーネスト・サトウは、日本での体験を「一外交官の見た明治維新」と題した書に記した。そのなかで西郷のことを「黒ダイヤのように光る大きな目玉をしていた」と表現した。おそらく当時の日本に滞在していた外国人のなかで最も西郷と親しい関係にあった人物といえるだろう。
サトウは、日本に来る直前は、ロンドン大学に在籍しており、その時に外務省通訳の試験を受けて合格し、文久2(1862)年に横浜に到着した。
薩英戦争の際には、イギリス艦隊に乗船して戦況を見守り、一時拘束された五代友厚の通訳もした。
西郷と初めて会ったのは、慶応2(1866)年6月にイギリス公使パークスが鹿児島に来た際のことである。この年の12月には、藩の支払を砂糖で代償できないかの交渉のため兵庫港で会談している。さらに慶応3(1867)年7月には、薩摩藩と長州藩に対して軍事援助も申し出て来たが、西郷は断っている。

維新後も交流は続いたが、サトウは明治2(1869)年に一時帰国している。明治政府からの下野や西南戦争の時期には、再び日本に滞在していたサトウは、西郷の行動や戦争を冷静に見守ることになった。日本にとっての激動の時期を直接知るだけに、思いもあったのだろうか、明治28(1895)年には駐日公使に就任し、後の日英同盟締結に尽力している。

旧鹿児島紡績所技師館(異人館)誕生

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2017.04.03
  • 著者:東川 隆太郎

慶応3(1867)年は、世界文化遺産にも登録されている旧鹿児島紡績所技師館こと異人館が竣工してから150年にあたる。この建物は、現在は駐車場やレストランになっている場所にあった鹿児島紡績所に招聘されたイギリス人技師7名の宿舎として建てられたもの。西洋風の建物が珍しい時代だけに、薩摩の職人が試行錯誤しながら建設した建造物でもある。木造2階建て、屋根は方形造りで瓦葺き、建築面積約343平方メートルで、玄関は、正面中央部に八角形に突出した形をしていて、左右対称となっている。また、部屋の周囲は1階が石畳のベランダ、2階が窓付き回廊となっていて、延床面積の約3分の1がベランダと回廊に充てられている。こうしたベランダコロニアルという建築は、日本の近代建築最初の花ともいわれ、同じく世界文化遺産に登録された長崎のグラバー邸とともに、西洋風建築のルーツを知る価値を有している。

慶応3年の五代友厚

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2017.03.01
  • 著者:東川 隆太郎

今から150年前の慶応3(1867)年、五代友厚は忙しく過ごしていた。前年も翌年も忙しい人物ではあるが、その後の功績にも大きく関わる出来事が連続している。

まず、五代にとって個人的なことになるが、藩主から鹿児島郡坂元村坊中馬場(現在の清水町)に屋敷を賜っている。五代友厚は長男ではないことから、生家である城ヶ谷(現在の長田町)の屋敷に居を構えるわけにはいかず、分家することになる。

この年の4月には、同じ天保6(1835)年生まれの坂本龍馬のために尽力している。それは、坂本龍馬が運航していた土佐藩の船が紀州藩の船と衝突し沈没した事件の調停である。沈没した船の名前からいろは丸事件と呼ばれ、福山藩の鞆の浦にて賠償交渉に立ち会い、龍馬ら海援隊が紀州藩から賠償金を受け取ることに成功している。坂本龍馬との親交を示すエピソードといえよう。

最後に平成27年に世界文化遺産に登録された長崎市にある小菅修船場の建造を、商人トーマス・グラバーや薩摩藩家老の小松帯刀に勧めている。蒸気機関による船の曳き上げを可能にした施設で、翌年に竣工した。

とにかく忙しい五代友厚であった。

龍馬・お龍の鹿児島への新婚旅行2

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2017.02.16
  • 著者:福田 賢治

                (著:鹿児島市維新ふるさと館 特別顧問 福田賢治氏)

 

霧島山麓での温泉や登山など最も幸せな時


龍馬夫妻は鹿児島城下のはずれにある原良の小松帯刀の別邸でしばらく過ごした。吉井幸輔(友実、後の宮内大丞)の邸にも宿泊していたとみられる。


しばらく鹿児島城下で過ごした後、3月17日、霧島山麓の、日当山温泉や塩浸温泉で過ごすことになり、鹿児島から船で浜之市(隼人港)へ渡った。その案内役を買って出たのが吉井幸輔と12歳の息子の幸蔵であった。日当山温泉は西郷がよく利用した温泉であり、また、霧島山麓の塩浸温泉は、傷を負った鶴がこの地の温泉に入り元気を取り戻したという言い伝えから「鶴の湯」とも言われ、古くから毒気や刀傷に聞くことで知られた温泉である。塩浸温泉で湯治している間、近くの谷川で魚釣りをしたり、小松帯刀からもらった連発銃で小鳥撃ちをしたりして自然を満喫している。このときよく随行した吉井幸蔵は、晩年、当時の龍馬夫妻の様子について「子供(12歳)の私にさえ目に余るようなことがたびたびあった」と、その仲の好さを息子の勇(「ゴンドラの唄」の作詞家)に語っている。


また、お龍については「急に怒ったり、笑ったりと気分屋」で、「はすっ葉な女に見えた」と、あまり良い印象を持たなかったようである。中でも幸蔵が驚いたのは、ある日のこと、龍馬とお龍の仲が気まずく二人は口を利かないときがあったが、そのとき龍馬が「もういい、もういいお龍さん、仲なおりをしよう・・」と涙を流すのを見たことであったという。幸蔵は「龍馬さんは、なぜあんな女が好きなのだろう」と疑問に思ったと述べている。龍馬は、かた破りの自由で気ままな生き方をする女性を好んだといわれている。


また、二人は和気清麻呂を祀る和気神社や露天風呂の「和気湯」、犬養の滝(龍馬は手紙に「陰剣之滝」と記す)なども巡り、姉の乙女への手紙に「実にこの世のものと思えぬ程の楽しい日々を過ごした」と記している。


3月30日、龍馬夫妻は小松が療養していた霧島の栄之尾温泉を慰問、天孫降臨の「高千穂峰」登山や霧島神宮にも参拝している。高千穂峰では「触ると祟りがあると」案内人の田中吉兵衛が制止するのも聞かず、二人は頂上に祀られている「天之逆鉾」を引き抜いて遊ぶなど、過ぎたいたずらもやっている。


霧島で存分に楽しんだ二人は、4月1日再び塩浸温泉に帰り、1週間ほど湯治したのち、4月12日鹿児島城下に帰りつき、小松邸で過ごした。

今年は慶応3(1867)年に薩土盟約が結ばれてから150年

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2017.02.01
  • 著者:福田 賢治

坂本龍馬の存在が大きすぎるのか、陰の存在のように思われがちな土佐藩士の中岡慎太郎。薩摩藩との関係は案外深く、西郷隆盛邸に宿泊するなどの交流もあった。その接点は、元治元(1864)年12月4日に長州藩とともに都落ちしていた三条実美ら五卿の待遇条件に関しての交渉が、小倉で持たれた時のことであった。薩摩藩側からは西郷隆盛が参加していたが、中岡慎太郎は交渉が決裂した場合は、西郷と刺し違える覚悟であったという。

さて、慶応3年6月22日に京都で結ばれた薩摩藩と土佐藩の盟約は、中岡慎太郎が板垣退助と西郷を引き合わせることで始まるものでもあった。ちなみに薩土盟約は、武力なしに大政奉還を成功させることを藩論とする土佐藩と武力倒幕も視野に入れた活動をする薩摩藩との駆け引きとも捉えられるものである。10月15日には大政奉還の上書が朝廷に受理され、穏やかにことが進むかに見えたが、1ヶ月後の11月15日に、坂本龍馬とともに中岡慎太郎は、京都の近江屋で暗殺される。今年はふたりにとって没後、150年にもあたる。

薩長同盟締結のもうひとりの立役者・中岡慎太郎

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2017.01.04
  • 著者:東川 隆太郎

慶応2(1866)年に締結された薩長同盟の立役者として薩摩藩や長州藩以外の人物で、まず思い描かれるのは坂本龍馬であろう。しかし、もうひとり両藩を結びつける働きをしたのが、やはり龍馬と同藩出身となる中岡慎太郎がいる。中岡も龍馬と同じように薩摩と長州を行き来し、西郷などと親交しながら新しい世の中をつくるべく奔走していた。

中岡慎太郎は天保9(1838)年、土佐の安芸郡北川郷の庄屋の長男として生まれた。始めは庄屋になるべく勉学に励んでいたが、文久元(1861)年に武市半平太の土佐勤王党に加盟すると人生の方向性が一変。同志らとともに五十人組を結成して京都や江戸で政治的活動をするようになる。この活動になかで土佐藩を脱藩し長州藩に逃れることになる。元治元(1864)年の禁門の変に参加した後は、再び長州に身を隠し、この年の暮れに西郷隆盛と接触することになる。ここから大きく薩摩藩との関係を強めていくことになるが、そのことは次回に。

海外を知ることで活躍する米国留学生

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2016.12.01
  • 著者:東川 隆太郎

慶応2(1866)年の藩費留学生の渡米に関しては、前年に派遣された英国留学生と比較するとあまり知られていない感は否めない。しかし、米国留学生も帰国後には明治政府の一員として活躍をすることになる。今回は7名のうち2名に関して、その活動と功績を紹介したい。

ひとりは吉原重俊(よしはら しげとし)。西南戦争の終結後、物価の上昇などがあって日本の財政が破綻しかけていた明治14(1881)年、同郷の松方正義が大蔵卿となり、日本銀行を設立することになる。その初代日本銀行総裁となり、紙幣の信頼回復を目的とした手形や小切手取引の普及に努めることになった。その際の慎重な取引姿勢は、そのままに日本銀行の伝統として受け継がれることになった。

もうひとりは仁礼景範(にれ かげのり)。海軍畑で活躍する薩摩藩出身の人々のなかでは地味な印象もあるが、明治7(1874)年の台湾事件の処理や江華島事件の護衛、明治11(1878)年には海軍兵学校長として後進の育成にも力を注ぐことになる。 このように、ふたりの活躍だけでも、二回目となる留学生の派遣が薩摩藩というより、日本にとっていかに大切であったかが理解されるだろう。

龍馬・お龍の鹿児島への新婚旅行

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2016.11.22
  • 著者:福田 賢治

                (著:鹿児島市維新ふるさと館 特別顧問 福田賢治氏)

 

大阪の天保山から鹿児島の天保山へ着いた龍馬夫妻

薩長同盟締結に貢献した龍馬は、その2日後に寺田屋で伏見奉行所の捕方に囲まれ、手に重傷を負った。龍馬の危機を救った薩摩藩は、薩長同盟の功績と傷の養生を兼ね、龍馬夫妻を鹿児島に招待した。

慶応2年3月4日、龍馬夫妻は、小松帯刀や西郷隆盛、吉井幸輔(友実)らとともに大阪の「天保山」から藩船「三邦丸」に乗船、3月10日鹿児島の「天保山」に到着した。奇しくも大阪・鹿児島とも発着場が同じ名称の「天保山」であった。両天保山はいずれも天保年間に築かれた軍港で、お台場(砲台)もあった。但し呼び名は、鹿児島が「てんぽざん」というのに対し、大阪は「てんぽうざん」と呼んだ。

当時、女性は軍艦に乗せないしきたりであったが、お龍は特別に許可された。薩摩藩がいかに龍馬夫妻を大事に扱ったかがわかる。龍馬の鹿児島入りは、前年の5月以来2度目であった。鹿児島の天保山公園近くの太陽橋のたもとには、昭和55年2月28日中村晋也氏の作による「坂本龍馬新婚の旅碑」が建てられている。

龍馬夫妻が過ごした鹿児島での新婚生活

龍馬夫妻の鹿児島訪問は「日本初の新婚旅行」として語られているが、龍馬は鹿児島で過ごした二人の生活の様子を、土佐にいる姉の乙女宛の手紙に詳しく書いている。

当時は男女の駆け落ち以外、男女二人が旅行するという習慣はなかった時代である。夫が藩外へ出かける際も妻の同伴は許されず、単身赴任と決められていたこともあって、男は外出先で現地妻をめとることも許されていた。西郷が奄美大島に潜居した際、愛加那を現地妻としたことや、小松帯刀や大久保利通など多くの人が、京都で現地妻をめとっていた。ただし、現地妻を自分の国元へ連れ帰ることは御法度であった。こうしたことを考えると、龍馬夫妻の鹿児島旅行は全く例外中の例外であったのである。ただ、龍馬は土佐藩の脱藩者であり、お龍は寺田屋で働き、母は寺田屋に預けていたため、龍馬夫妻にとっては誰にも気兼ねすることなく新婚旅行の旅ができたのであろう。

実は米国にも留学生を派遣していた

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2016.11.01
  • 著者:東川 隆太郎

慶応元(1865)年は19名の薩摩藩士が英国へと国禁を冒してまで旅立った年である。
この話は出航した串木野の羽島に記念館が誕生するくらいに有名だが、慶応2(1866)年に今度は米国へと留学生が派遣されたことは案外知られていない。その時のメンバーは7名で、長崎に滞在していた米国商人のロビネットが世話をしている。工業と経済の大国である英国と異なり、米国は農業も大規模に行われる広大な国土を有する国。それだけに国を変えての留学には大きな意味があったと考えられる。

選抜された人物もとってもユニークであったりする。それは、文久3(1863)年の薩英戦争の際、イギリス艦隊に奇襲しようとした「スイカ売り決死隊」とも呼ばれる血気盛んな藩士が数多くいるということ。攘夷思想が普通であった頃に、それを実行しようとした人物らが海外へと向かうことは非常に冒険であったに違いない。

次回は、米国留学生のその後の活躍をご紹介したい。

英国公使パークスが鹿児島で食べたもの

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2016.10.01
  • 著者:東川 隆太郎

慶応2(1866)年6月16日に鹿児島に到着したパークス一行は、翌日に仙巌園にて藩主らの歓迎を受けている。鹿児島側の列席者は小松帯刀や桂久武、新納刑部などであった。また、その日の料理は日本料理が中心であった。45種類もの料理が出されたが、アルコールとしてビールやシャンペンも登場している。翌日18日は、今度は洋風料理が中心となっての歓迎であった。その際に強烈な印象を残した料理が豚の丸焼きである。三頭の丸焼き豚が卓上に並べられたというから、パークスらも驚いたことであろう。当時の日本では豚肉を食することはほとんどなかったが、薩摩藩は琉球王国の文化の影響もあって例外であった。それにしても丸焼きの豚とはなんとも豪快である。

もちろんパークスらが鹿児島で楽しんだのは食事だけではない。集成館の硝子製造所を訪れたり、磯山への狩猟に出かけたりしている。鹿児島での滞在を満喫したパークス一行。イギリスはその後さらに薩摩藩よりの姿勢を示すことになる。

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