明治維新と薩摩藩

江戸城開城の立役者・勝海舟と西郷との関係

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2018.04.02
  • 著者:東川 隆太郎

明治元(1868)年4月11日、徳川慶喜が江戸より水戸へと向かい、江戸城が開城された。戊辰戦争はその後も続くが、ひとまず江戸のまちが戦場とならずに城の受け渡しが行われた最大の立役者は、やはり西郷隆盛と勝海舟であろう。

ふたりの関係は、江戸城開城前後だけではなくその後も様々なかたちで継続していく。そのひとつの表れが、明治12(1879)年に南葛飾郡大木村木下川浄光寺境内に海舟が建立した西郷の記念碑である。賊軍の将として西郷が最期迎えた西南戦争終結から2年しか経っていないだけに慎重に進められ、西郷と同郷の明治政府に仕える吉井友実にも意見を聞きながらの建立であった。またこの後、勝は西郷と糸との間に生まれた寅太郎の海外留学にも尽力している。

西郷に関わり続けることが勝の人生において重要であった思える事柄である。

江戸総攻撃前の駿府(静岡)会談

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2018.03.01
  • 著者:東川 隆太郎

鳥羽・伏見の戦いで勝利した新政府軍は、徳川慶喜がいる江戸を目指した。西郷隆盛は東征軍の参謀として、2月14日には名古屋を出発していた。3月の始めには三島(静岡県)に本陣を敷いていたが、3日には駿府(静岡)に引き返している。その西郷に対して、勝海舟は山岡鉄太郎こと鉄舟を使者として面会させている。つまり、有名な西郷と勝の会談には、前夜があったということである。

ちなみに鉄舟は、徳川幕府の旗本出身で剣や術軍学に長けて、後に新政府にも仕え伊万里県知事などに就任している。面会は3月9日に行われ、新政府軍の江戸開城に向けた条件が示された。それは、徳川慶喜の謹慎恭順と備前(岡山)藩への御預け、軍艦や武器の引き渡し、城内居住の家臣の向島移転などである。この山岡鉄舟と西郷の面会が、江戸における勝海舟との会談に繋がることになる。

パリ万国博覧会への初参加(その3)

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2018.02.26
  • 著者:福田 賢治

(文:鹿児島市維新ふるさと館 特別顧問 福田賢治氏)

○パリ万博に参加した薩摩藩と佐賀藩

幕府の呼びかけにも関わらず、慶応3年(1867年)のパリ万国博覧会に出品したのは、幕府以外では、薩摩藩と佐賀藩のみであった。薩摩は早くからパリ万博への参加を決定し、準備を進めていた。薩摩の出品物は約四百箱で、その主なものは、薩摩焼、竹細工品、茶、砂糖、泡盛(米焼酎)などであった。佐賀藩は陶磁器など約五百箱、商人として唯一参加した埼玉出身の江戸商人清水卯三郎は、四万二千両相当の額の品を出品したという。
幕府のパリ万博への参加決定が遅れたこともあって、薩摩と幕府との溝が深まり、同じ日本からの出品にも関わらず、物品陳列場の表札記名やブースの別枠確保が問題となり、さらに、薩摩が「薩摩琉球国勲章」を作成してフランス公官に贈ったことから、フランスでは薩摩の名声がたかまり、一層幕府との溝が深まったのであった。
幕府の向山全権公使は、薩摩の勲章があまりにも話題となったので、幕府も勲章を作成して配るよう上申したが間に合わず、悔しがったという。こうしたことから、欧州では日本がドイツ連邦政府と同様に、連邦制になっているとみなす国が増え、欧州における幕府の権威は著しく失墜したといわれる。

○薩摩言葉が唯一英語になった「醤油」(SOY SAUCE)

昔から「醤油」のことを鹿児島では「ソイ」という。パリ万博では薩摩は醤油も出品し、「SOY」と標示して売り出したことから、醤油のことを「SOY」と呼ぶようになったといわれ、薩摩言葉が唯一英語になったものである。
余談であるが、薩摩では文久3年(1863年)、生麦事件がもとで薩英戦争が始まったが、その後、薩摩とイギリスは横浜で講和条約を結んだ。その際、薩摩はイギリスに対し「温州みかん」を贈った。イギリスの人々はこれを食して、その美味さに驚き大変喜んだという。以来、「温州みかん」のことを英語で「SATSUMA」(サツマ)と呼ぶようになったのである。

○モンブランのその後

薩摩はモンブランの協力もあって欧州における一定の評価を高めたが、モンブランは、ベルギー商社設立が不調に終わったことから、その代償として今度は薩摩に対し、小銃5千挺、大砲20門及び軍服の売り込みをはかったため、薩摩はこれを断った。この時期、薩摩はイギリスと懇意にしていたこともあって、これ以上フランスとの緊密化は、イギリスとの友好関係にひびが入ることを懸念し、モンブランとも距離をおくようになったのである。
モンブランは、明治になると、明治政府の代理公使兼総領事としてパリ公館を開設し、薩摩の前田正名を雇い、明治3年に日本公使館が開設されるまで外交事務を掌ったが、ここに初代の駐仏弁理公使として薩摩の英国留学生の一人である鮫島尚信が赴任してきたこともあって、モンブランは辞任したのである。以後、日本も西洋文明の賞賛だけでなく、西洋を冷静な目で見るようになり、英国留学生の力がようやく発揮される契機となったのである。

鳥羽・伏見の戦い~その②

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2018.02.06
  • 著者:東川 隆太郎

旧幕府軍の長である徳川慶喜は、この戦いに際して「討薩の表」を発表して大坂から京都へと街道を進軍させた。朝廷を敵とする意識ではなく「君側の奸を除く」こと、つまり朝廷周辺から薩摩藩を追い出すことを目的として戦いであった。そのような旧幕府軍に衝撃が走る。

戦闘開始から3日目となる1月5日朝に、皇軍であることを示す錦旗を掲げた薩摩藩の一小隊と仁和寺宮嘉彰親王が本陣である東寺を出発する。その錦旗の登場は、まず薩摩軍の士気を鼓舞させることになった。

次に旧幕府軍には精神的な圧力となった。ちなみに錦旗は、薩摩軍側は見たという記録があるが、旧幕府軍側が見たという記録はない。噂が噂を呼んで広がったとされている。その錦旗を実際見ていないにも関わらず、一番衝撃を持って受け止めたのは、大坂城にあった徳川慶喜であった。

そして1月6日夜、徳川慶喜は大坂城をひそかに抜け出し、軍艦で江戸に戻ることになる。

こうして鳥羽伏見の戦いは、薩摩藩や長州藩を中心とした官軍の勝利で幕を閉じることになる。

鳥羽伏見の戦い その①

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2018.01.09
  • 著者:福田 賢治

今からちょうど150年前の慶応4(1868)年、薩摩藩は正月早々に戦っていた。これが鳥羽伏見の戦いであり、この戦いから約1年半に及ぶ戊辰戦争が始まる。

戦闘は1月3日から6日までの4日間に行われ、舞台は大坂方面から京都へと向かう鳥羽伏見の両街道沿いで行われた。
薩摩藩と長州藩を中心とする新政府軍と、大坂城から上って来た旧幕府軍との戦いで、両軍合わせて約2万人が激突することになる。

幕府軍のほうが数的有利に立っていたものの、新政府軍はここでどうにか勝利を収める。まさに天下分け目の戦いであり、もしこの戦争で敗れていたら、「明治維新」という言葉自体が存在しなかったかもしれないくらいの、その後の歴史的流れを左右するものであった。

もちろん、この戦いにおいて西郷隆盛は重要な役割を担い、大久保利通も後方において支援し続けた。その具体的な動きについては次回ご紹介したい。

パリ万国博覧会への初参加(その2)

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2017.12.08
  • 著者:

(文:鹿児島市維新ふるさと館 特別顧問 福田賢治氏)

○幕府のパリ万博参加決定の遅れ

フランスは幕府に対して、ロニーという外務省係官を通して慶応元年(1865年)秋以来、パリ万博への出品要請をしてきていたが、参加については消極的であった。ところが薩摩藩は、薩摩藩英国留学生を引率した五代友厚などを通して、モンブランが強く参加を勧めたこともあって、パリ万博への出品を早く決定し、全権使節として家老の岩下佐次右衛門(方平)らを派遣することになった。そのため、幕府も傍観するわけにもいかなくなり、急ぎ幕府も参加を決定するとともに、諸大名や商人たちへも参加の呼びかけをすることになったのであるが、急なことでもあり、薩摩以外では、佐賀藩と埼玉の商人清水卯三郎だけの参加となったのであった。

○幕府は薩摩藩に2か月遅れてパリ到着

薩摩藩一行は、全権の岩下左次右衛門、それに側役格の市来六左衛門政清(西郷の妹コトの夫)、博覧会担当の野村宗七(盛秀)ら5人と、通訳の堀壮十郎(孝之)、大工の鳥丸啓介、留学生の岩下長十郎(方平の息子)、英国人のハリソンとライルホームの総勢11人が派遣された。
一行が薩摩を出発したのは、慶応2年(1866)年11月10日(新暦12月16日)で、パリに到着したのが翌年の慶応3年(1867年)1月2日であった。幕府がこうした薩摩の動きを知ったのは、薩摩がパリに到着した後であり、あわててフランス政府に抗議するとともに、将軍の名代として清水昭武(慶喜の弟)を派遣し、随行者として外国奉行の向山一履(隼人正)、同支配組頭の田辺太一、昭武の傳役の山高信離(岩見守)らを派遣したが、一行がパリに到着したのは、薩摩に遅れること約2か月後の陰暦3月7日(新暦4月11日)のことであった。昭武は万博参加後の5年間の留学が主目的であった。
モンブランは当初、昭武の世話役として幕府に採用してもらう心つもりであったが、これを断られたため、幕府から薩摩寄りに変心したともいわれている。

○幕府とは別個の出品ブースを確保

モンブランは、33才の若さであったが、幕府に先立って薩摩のためにフランス政府に働きかけ、世話役としての役割をよく果たした。新聞などを使って大いに宣伝し、あたかも日本には幕府と薩摩政府があり、対等であるかの如く論じさせたのであった。
また、幕府より先に交渉を始めた薩摩は、幕府とは別区画で独立した出品ブースを確保するとともに、呼称も「薩摩琉球国政府」としていたが、幕府の抗議により呼称だけは「日本薩摩太守政府」と改め、幕府は「日本大君政府」として出店した。また、モンブランの勧めもあって、フランス国民が勲章好きということを利用し、「薩摩琉球国勲章」を作り、フランス皇帝をはじめ、政府高官に贈呈したため、各国の目が薩摩藩に集中し話題となったのである。

京在日記にみる中村半次郎

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2017.12.01
  • 著者:東川 隆太郎

慶応3(1867)年における京都滞在中の様子を日記として記録していた中村半次郎こと桐野利秋。その中村が、この年の暗殺された坂本龍馬と意外と親密な関係にあったことはあまり知られていない。もちろん、西郷らと行動を伴にしてきただけに、顔見知りであることは理解できるが、どのくらいの距離感で付き合っていたのかを京在日記は教えてくれる。

坂本龍馬と中岡慎太郎が近江屋で暗殺されたのは11月15日。その五日前の10日に、散歩の途中で坂本龍馬と出会ったことが日記にある。そして17日に暗殺されたことを知る。そこには壬生浪士組こと新選組の仕業とのうわさがあるとある。そして翌日の18日には、埋葬されたばかりのお墓にお参りしている。そこには土佐藩の高松太郎や坂本清次郎がいて、一緒に墓を離れている。この日の夜には大久保利通の京都の屋敷に宿泊しているので、大久保と龍馬の死について語ったりしたのかもしれない。
埋葬されてすぐに墓参は、龍馬を弔う気持ちの深さに他なく、親しい関係であったことが理解できる。

桐野利秋の京在日記からみつめる慶応3年

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2017.11.01
  • 著者:東川 隆太郎

桐野利秋こと中村半次郎は、慶応3(1867)年のほとんどを京都で過ごした。その際の日記を残していて、それは9月朔日から12月10日までのものである。この間では様々な出来事が京都で起り、それに桐野を大きく関わっている。そのひとつが上田藩士の赤松小三郎の暗殺である。京在日記には、そのことが詳細に記されている。

まず、桐野利秋は人斬り半次郎と呼ばれているが、記録の上で殺しが確認できるのはひとりである。それが赤松小三郎で、京在日記によると9月3日に暗殺の計画を立てて実行している。赤松小三郎は、軍師であり薩摩藩にも出入りしていた。そのため薩摩藩の軍事情報も知り得ていると感じ、帰国する赤松の情報漏えいの疑いがあるとみて暗殺したとされている。半次郎は暗殺の際にとどめを刺している。このように京在日記には、隠してもよさそうな暗殺の記録もあり、まさに生の桐野利秋を知ることができる貴重な史料といえる。

慶応3年の大久保利通の行動

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2017.10.02
  • 著者:東川 隆太郎

慶応3(1867)年は薩摩藩にとって、様々な決断を迫られる年でもあった。それは西郷にとってもしかり、大久保にとってもしかりである。

藩の上層部への説得や長州藩や土佐藩、さらには朝廷とのすり合わせなど、やらないといけないことへの決断への間隔に短さが求められる時期でもあった。この年の大久保は、とにかく忙しかった。まず行動の中心は薩摩ではなく京都であった。さらに9月には伊藤博文らと山口に向かい、毛利藩主らと面会している。

10月26日には、西郷、小松らとともに鹿児島で島津久光らに倒幕への軍事行動への理解を求めている。その後となる11月には足痛で動けない小松帯刀の代わりに土佐藩に赴き、山内豊信に上京の説明を行っている。12月9日の小御所会議の前となる11月27日には、京都において越前藩の松平慶永に招かれて、意見を求められている。

このような超過密なスケジュールをこなし続けられた胆力と体力、知力が慶応3年の大久保には十分に備わっていたといえる。

パリ万国博覧会への初参加(その1)

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2017.09.22
  • 著者:福田 賢治

(文:鹿児島市維新ふるさと館 特別顧問 福田賢治氏)

○「パリ万国博覧会」参加と「海外渡航禁止令」の解禁

パリでの万国博覧会は8回開かれているが、そのうち日本が初めて参加したのは、慶応3年(1867年)4月に開催された第2回のパリ万博であった。当時、日本はまだ海外渡航は禁止されていたため、開催前年の慶応2年4月7日、幕府は「海外渡航禁止令」を解き、日本人も海外渡航ができるようにした。
薩摩藩留学生がイギリスへ出発した慶応元年には、まだ海外への渡航は禁止されていたため、留学生は内密で串木野の羽島港からグラバーの船でイギリスへ渡ったのである。
海外渡航が解禁になった理由としては、幕府の公的海外使節団や薩摩藩英国留学生などのニュースが伝わり、使節団や留学生と交わった外国の人々は、誠実で礼儀正しく、熱心に学ぶ日本人に対し好印象を持ち、政・財界を問わず高い評価を得るなど、日本への関心が高まっていたことである。一方、日本国内においても、日本を脱出して西洋文化に学ぼうとする人が年々増えてきており、密航者も増加していた。こうした時期に、パリ万国博覧会への参加という事情も重なり、国内における海外熱も一段と高まったことから、幕府は海外渡航解禁へと踏み切ったのであった。

○日本の政情不安と英・仏の思惑

慶応3年というと、国内では10月に「大政奉還」、12月には「王政復古」の大号令が下り、翌年1月には「鳥羽伏見の戦い」が始まるというあわただしい年である。戊辰戦争の前年ということもあって、欧米諸国も幕府自体が存続するのか、それとも討幕がおこなわれるのかと、欧米諸国はその見極めに大変神経を使い、様々な憶測が飛び交った時期でもあった。
特に、イギリスとフランスの間では、日本における外交上の主導権をめぐって両国の駆け引きが目立ち、それぞれの国の駐日公使や大使館職員は、本国への報告や対日交渉に頭を悩ませていた。

○日本がパリ万国博覧会に参加することになったきっかけ

パリ万博への参加は、当時の日本駐在のフランス公使ロッシュが「日本の存在と権威を世界に知らしめるよい機会」と幕府に参加を勧めたことに始まる。幕府は大名や商人など国内に広く応募を呼び掛けたが、参加を申し出たのは、薩摩藩と佐賀藩、それに埼玉出身の江戸商人清水卯三郎だけであった。
幕府は幕府自体の出品も含め、これらを一つにまとめて日本として出品するつもりであったが、薩摩藩は幕府が出品を決定する前に、すでにフランス貴族のモンブランの勧めを受けて出品を決定しており、幕府とは別に薩摩藩独自で準備を進め、会場も幕府とは別の独立した区画を確保していた。

○薩摩にパリ万博参加を勧めたモンブランとは
モンブランは、フィリピンに旅行しているときペリーの日本来航を知り、日本に来て長崎に住んだ人である。文久元年(1861年)、日本人の斎藤健次郎を伴いパリへ帰国、「日本」と題した100ページ余りの本を出版、日本人の優秀さや、積極的に西洋文明を学ぼうとする精神を讃えるとともに、日本の明るい将来を展望するなど日本を高く評価したことから、西欧における「日本通」として有名になった人物である。ベルギーにも領地をもつほどの資産家でもあった。
モンブランは最初、幕府と親交があり、日本に滞在した経験を買われ幕府使節団の一員としてパリに同行したが、ナポレオン3世との謁見において、通訳の選定で手違いが生じ、幕府から疎外されたかたちになって幕府と離れた。以後、薩摩の使節団、新納久脩や五代友厚などと親交を深め、薩摩との間に「ベルギー商社設立」の仮契約も結んだ。これは後に破棄されるが、イギリスからフランスへ渡った留学生などの世話もしており、このモンブランが薩摩にパリ万博への参加を進めたのであった。
ただ、このモンブランについては、アメリカに渡った鮫島尚信や森有礼などは、このモンブランは信用できない人物として「ベルギー商社設立」には猛反対しており、大久保などに反対の意見書なども提出している。これは、フランスと利権を争っていたイギリス寄りの考えとも言われ、薩摩藩留学生を世話したオリファントやグラバーらの考えが、多分に留学生にも影響しているとの見方もある。

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