明治維新と薩摩藩

王政復古から戊辰戦争へ

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2018.06.21
  • 著者:福田 賢治

(文:鹿児島市維新ふるさと館 特別顧問 福田賢治氏)

○ 討幕への歩み
 薩摩が「公武合体」から「討幕」へと方針転換したのは、慶応3年(1867)5月25日のことでした。その前日、京都で雄藩諸侯の島津久光(薩摩)、松平春嶽(福井)、山内容堂(土佐)、伊達宗城(上島)と将軍慶喜が会談、長州処分や兵庫開港の問題など幕政改革について協議しましたが、慶喜は幕府の権威をもって譲らず、ついに「四候会議」は決裂しました。その翌日の25日、薩摩は京都藩邸において、小松、西郷、大久保など藩首脳が藩邸会議を開き、「討幕やむなし」との結論に至り、それまでかたくなに公武合体を主張してきた久光も、ついに「公武合体から討幕へ」と、方針転換することを決意しました。
しかし、薩摩では門閥派を中心に、「鎌倉以来700年の歴史を誇る島津氏の存亡をかけた出兵」には反対論も根強く、そのため、一同は帰国して説得に当たる一方、雄藩諸藩に対しても、討幕決定の報告と討幕出兵を要請したのでした。
また、大久保は討幕反対者の説得と雄藩諸国への出兵要請を考え、洛北で謹慎中であった岩倉具視を訪ね、「討幕の密勅」を朝廷から出してもらうよう画策しました。これは慶喜が10月14日に「大政奉還」をしたことにより、取り下げられますが、薩摩は反対派説得と率兵上京の材料として極秘に利用したのでした。10月には、小松、西郷、大久保らは帰国途中山口により、毛利敬親父子に面会して出兵打ち合わせを行った後帰国し、11月13日には藩主忠義は西郷を伴い軍艦3隻に3千の兵を引き連れて出発、途中三田尻により毛利父子とも会見、23日京都に入ったのでした。 
 
○ 「王政復古」から「鳥羽伏見の戦い」へ
 慶応3年12月9日、京都に於いて「王政復古」が宣言され、それに伴い将軍慶喜の辞官・納地が決定し、これが二条城の慶喜に伝えられるや騒然となり、慶喜は不測の事態を避けるため、二条城から大阪城へと移ったのでした。
ところが12月25日、江戸市中を荒らす浪人たちが薩摩藩邸に逃げ込むことから、市中取り締まりの庄内藩などがいきりたち、薩摩藩邸を焼き討ちし、薩摩は50人が死亡、50人余りが船に避難、残りは捕虜となりました。この報が大阪城に伝わると、「薩摩打倒」の声が高まり、1万5千の幕府軍は鳥羽・伏見の両街道から京都の5千の薩長軍めざして進軍、ついに慶応4年1月3日、鳥羽・伏見の戦いが始まったのでした。
しかし、新式装備に勝る薩長の勢いに加え、大久保や岩倉らが事前に準備していた「錦旗の御旗」が翻るのを見た幕府軍は、自分たちは「賊軍」だと知り、急に戦闘意欲をなくして総崩れとなり、また、慶喜は兵を見捨てて夜中に船で江戸へ帰り、寛永寺にて自ら謹慎するとともに、篤姫や和宮に対して朝廷にとりなしをしてもらうよう依頼したのでした。
その後、新政府は東征大総督に有栖川宮熾仁親王を命じ、西郷はその参謀となり戊辰戦争が本格的に始まったのでした。

西郷さん、久しぶりの鹿児島帰り

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2018.06.01
  • 著者:東川 隆太郎

江戸城無血開城や上野戦争など、緊迫した日々を江戸を中心に過ごした西郷さん。6月14日、久しぶりに鹿児島へ到着しました。この時の西郷邸は、まだ上之園(共研公園近く)にありました。西郷さん以外の兄弟たちは戊辰戦争のために各地を転戦しており、女性や子供が多い家への帰宅でもありました。

江戸での毎日は西郷さんの体に堪えるものだったのでしょう。すぐに日当山温泉(霧島市)に出かけています。日当山温泉は、西郷さんがとってもお気に入りとしていた湯治場で、その後も何度となく出かけています。行程は、鹿児島港から錦江湾を船で浜之市港に向かい、そこからは徒歩となります。浜之市港から日当山温泉までは4キロほどの距離で、しかも平坦なので行きやすい湯治場といえます。日当山温泉から鹿児島に帰る8月上旬以降の西郷さんは、さらに多忙な日々を送ることになります。まさに西郷さんの夏休みが日当山温泉での湯治だったのかもしれません。

西郷隆盛も参戦した上野戦争

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2018.05.01
  • 著者:東川 隆太郎

明治元(1868)年4月に開城された江戸城。しかし、旧幕府勢力すべてが新政府に対して恭順してはいなかった。特に抵抗勢力の一部は「彰義隊」と名乗り、徳川家の菩提寺である寛永寺のある上野に集結した。西郷らはその討伐を決意し、長州藩の大村益次郎の作戦計画に従い、5月15日、上野に進撃した。

薩摩藩は正面となる黒門口から攻撃することとなったが、この場は難所のひとつとなり犠牲者も多数出すことになった。佐賀藩が自藩で製造したアームストロング砲などを放つなどの活躍を示し、彰義隊を一日で撤退させることになった。

この戦いでは、戊辰戦争のきっかけのひとつとなった「薩摩藩邸焼打ち事件」を先導した益満休之助が負傷後に亡くなっている。

江戸城開城の立役者・勝海舟と西郷との関係

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2018.04.02
  • 著者:東川 隆太郎

明治元(1868)年4月11日、徳川慶喜が江戸より水戸へと向かい、江戸城が開城された。戊辰戦争はその後も続くが、ひとまず江戸のまちが戦場とならずに城の受け渡しが行われた最大の立役者は、やはり西郷隆盛と勝海舟であろう。

ふたりの関係は、江戸城開城前後だけではなくその後も様々なかたちで継続していく。そのひとつの表れが、明治12(1879)年に南葛飾郡大木村木下川浄光寺境内に海舟が建立した西郷の記念碑である。賊軍の将として西郷が最期迎えた西南戦争終結から2年しか経っていないだけに慎重に進められ、西郷と同郷の明治政府に仕える吉井友実にも意見を聞きながらの建立であった。またこの後、勝は西郷と糸との間に生まれた寅太郎の海外留学にも尽力している。

西郷に関わり続けることが勝の人生において重要であった思える事柄である。

江戸総攻撃前の駿府(静岡)会談

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2018.03.01
  • 著者:東川 隆太郎

鳥羽・伏見の戦いで勝利した新政府軍は、徳川慶喜がいる江戸を目指した。西郷隆盛は東征軍の参謀として、2月14日には名古屋を出発していた。3月の始めには三島(静岡県)に本陣を敷いていたが、3日には駿府(静岡)に引き返している。その西郷に対して、勝海舟は山岡鉄太郎こと鉄舟を使者として面会させている。つまり、有名な西郷と勝の会談には、前夜があったということである。

ちなみに鉄舟は、徳川幕府の旗本出身で剣や術軍学に長けて、後に新政府にも仕え伊万里県知事などに就任している。面会は3月9日に行われ、新政府軍の江戸開城に向けた条件が示された。それは、徳川慶喜の謹慎恭順と備前(岡山)藩への御預け、軍艦や武器の引き渡し、城内居住の家臣の向島移転などである。この山岡鉄舟と西郷の面会が、江戸における勝海舟との会談に繋がることになる。

パリ万国博覧会への初参加(その3)

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2018.02.26
  • 著者:福田 賢治

(文:鹿児島市維新ふるさと館 特別顧問 福田賢治氏)

○パリ万博に参加した薩摩藩と佐賀藩

幕府の呼びかけにも関わらず、慶応3年(1867年)のパリ万国博覧会に出品したのは、幕府以外では、薩摩藩と佐賀藩のみであった。薩摩は早くからパリ万博への参加を決定し、準備を進めていた。薩摩の出品物は約四百箱で、その主なものは、薩摩焼、竹細工品、茶、砂糖、泡盛(米焼酎)などであった。佐賀藩は陶磁器など約五百箱、商人として唯一参加した埼玉出身の江戸商人清水卯三郎は、四万二千両相当の額の品を出品したという。
幕府のパリ万博への参加決定が遅れたこともあって、薩摩と幕府との溝が深まり、同じ日本からの出品にも関わらず、物品陳列場の表札記名やブースの別枠確保が問題となり、さらに、薩摩が「薩摩琉球国勲章」を作成してフランス公官に贈ったことから、フランスでは薩摩の名声がたかまり、一層幕府との溝が深まったのであった。
幕府の向山全権公使は、薩摩の勲章があまりにも話題となったので、幕府も勲章を作成して配るよう上申したが間に合わず、悔しがったという。こうしたことから、欧州では日本がドイツ連邦政府と同様に、連邦制になっているとみなす国が増え、欧州における幕府の権威は著しく失墜したといわれる。

○薩摩言葉が唯一英語になった「醤油」(SOY SAUCE)

昔から「醤油」のことを鹿児島では「ソイ」という。パリ万博では薩摩は醤油も出品し、「SOY」と標示して売り出したことから、醤油のことを「SOY」と呼ぶようになったといわれ、薩摩言葉が唯一英語になったものである。
余談であるが、薩摩では文久3年(1863年)、生麦事件がもとで薩英戦争が始まったが、その後、薩摩とイギリスは横浜で講和条約を結んだ。その際、薩摩はイギリスに対し「温州みかん」を贈った。イギリスの人々はこれを食して、その美味さに驚き大変喜んだという。以来、「温州みかん」のことを英語で「SATSUMA」(サツマ)と呼ぶようになったのである。

○モンブランのその後

薩摩はモンブランの協力もあって欧州における一定の評価を高めたが、モンブランは、ベルギー商社設立が不調に終わったことから、その代償として今度は薩摩に対し、小銃5千挺、大砲20門及び軍服の売り込みをはかったため、薩摩はこれを断った。この時期、薩摩はイギリスと懇意にしていたこともあって、これ以上フランスとの緊密化は、イギリスとの友好関係にひびが入ることを懸念し、モンブランとも距離をおくようになったのである。
モンブランは、明治になると、明治政府の代理公使兼総領事としてパリ公館を開設し、薩摩の前田正名を雇い、明治3年に日本公使館が開設されるまで外交事務を掌ったが、ここに初代の駐仏弁理公使として薩摩の英国留学生の一人である鮫島尚信が赴任してきたこともあって、モンブランは辞任したのである。以後、日本も西洋文明の賞賛だけでなく、西洋を冷静な目で見るようになり、英国留学生の力がようやく発揮される契機となったのである。

鳥羽・伏見の戦い~その②

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2018.02.06
  • 著者:東川 隆太郎

旧幕府軍の長である徳川慶喜は、この戦いに際して「討薩の表」を発表して大坂から京都へと街道を進軍させた。朝廷を敵とする意識ではなく「君側の奸を除く」こと、つまり朝廷周辺から薩摩藩を追い出すことを目的として戦いであった。そのような旧幕府軍に衝撃が走る。

戦闘開始から3日目となる1月5日朝に、皇軍であることを示す錦旗を掲げた薩摩藩の一小隊と仁和寺宮嘉彰親王が本陣である東寺を出発する。その錦旗の登場は、まず薩摩軍の士気を鼓舞させることになった。

次に旧幕府軍には精神的な圧力となった。ちなみに錦旗は、薩摩軍側は見たという記録があるが、旧幕府軍側が見たという記録はない。噂が噂を呼んで広がったとされている。その錦旗を実際見ていないにも関わらず、一番衝撃を持って受け止めたのは、大坂城にあった徳川慶喜であった。

そして1月6日夜、徳川慶喜は大坂城をひそかに抜け出し、軍艦で江戸に戻ることになる。

こうして鳥羽伏見の戦いは、薩摩藩や長州藩を中心とした官軍の勝利で幕を閉じることになる。

鳥羽伏見の戦い その①

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2018.01.09
  • 著者:東川 隆太郎

今からちょうど150年前の慶応4(1868)年、薩摩藩は正月早々に戦っていた。これが鳥羽伏見の戦いであり、この戦いから約1年半に及ぶ戊辰戦争が始まる。

戦闘は1月3日から6日までの4日間に行われ、舞台は大坂方面から京都へと向かう鳥羽伏見の両街道沿いで行われた。
薩摩藩と長州藩を中心とする新政府軍と、大坂城から上って来た旧幕府軍との戦いで、両軍合わせて約2万人が激突することになる。

幕府軍のほうが数的有利に立っていたものの、新政府軍はここでどうにか勝利を収める。まさに天下分け目の戦いであり、もしこの戦争で敗れていたら、「明治維新」という言葉自体が存在しなかったかもしれないくらいの、その後の歴史的流れを左右するものであった。

もちろん、この戦いにおいて西郷隆盛は重要な役割を担い、大久保利通も後方において支援し続けた。その具体的な動きについては次回ご紹介したい。

パリ万国博覧会への初参加(その2)

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2017.12.08
  • 著者:

(文:鹿児島市維新ふるさと館 特別顧問 福田賢治氏)

○幕府のパリ万博参加決定の遅れ

フランスは幕府に対して、ロニーという外務省係官を通して慶応元年(1865年)秋以来、パリ万博への出品要請をしてきていたが、参加については消極的であった。ところが薩摩藩は、薩摩藩英国留学生を引率した五代友厚などを通して、モンブランが強く参加を勧めたこともあって、パリ万博への出品を早く決定し、全権使節として家老の岩下佐次右衛門(方平)らを派遣することになった。そのため、幕府も傍観するわけにもいかなくなり、急ぎ幕府も参加を決定するとともに、諸大名や商人たちへも参加の呼びかけをすることになったのであるが、急なことでもあり、薩摩以外では、佐賀藩と埼玉の商人清水卯三郎だけの参加となったのであった。

○幕府は薩摩藩に2か月遅れてパリ到着

薩摩藩一行は、全権の岩下左次右衛門、それに側役格の市来六左衛門政清(西郷の妹コトの夫)、博覧会担当の野村宗七(盛秀)ら5人と、通訳の堀壮十郎(孝之)、大工の鳥丸啓介、留学生の岩下長十郎(方平の息子)、英国人のハリソンとライルホームの総勢11人が派遣された。
一行が薩摩を出発したのは、慶応2年(1866)年11月10日(新暦12月16日)で、パリに到着したのが翌年の慶応3年(1867年)1月2日であった。幕府がこうした薩摩の動きを知ったのは、薩摩がパリに到着した後であり、あわててフランス政府に抗議するとともに、将軍の名代として清水昭武(慶喜の弟)を派遣し、随行者として外国奉行の向山一履(隼人正)、同支配組頭の田辺太一、昭武の傳役の山高信離(岩見守)らを派遣したが、一行がパリに到着したのは、薩摩に遅れること約2か月後の陰暦3月7日(新暦4月11日)のことであった。昭武は万博参加後の5年間の留学が主目的であった。
モンブランは当初、昭武の世話役として幕府に採用してもらう心つもりであったが、これを断られたため、幕府から薩摩寄りに変心したともいわれている。

○幕府とは別個の出品ブースを確保

モンブランは、33才の若さであったが、幕府に先立って薩摩のためにフランス政府に働きかけ、世話役としての役割をよく果たした。新聞などを使って大いに宣伝し、あたかも日本には幕府と薩摩政府があり、対等であるかの如く論じさせたのであった。
また、幕府より先に交渉を始めた薩摩は、幕府とは別区画で独立した出品ブースを確保するとともに、呼称も「薩摩琉球国政府」としていたが、幕府の抗議により呼称だけは「日本薩摩太守政府」と改め、幕府は「日本大君政府」として出店した。また、モンブランの勧めもあって、フランス国民が勲章好きということを利用し、「薩摩琉球国勲章」を作り、フランス皇帝をはじめ、政府高官に贈呈したため、各国の目が薩摩藩に集中し話題となったのである。

京在日記にみる中村半次郎

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2017.12.01
  • 著者:東川 隆太郎

慶応3(1867)年における京都滞在中の様子を日記として記録していた中村半次郎こと桐野利秋。その中村が、この年の暗殺された坂本龍馬と意外と親密な関係にあったことはあまり知られていない。もちろん、西郷らと行動を伴にしてきただけに、顔見知りであることは理解できるが、どのくらいの距離感で付き合っていたのかを京在日記は教えてくれる。

坂本龍馬と中岡慎太郎が近江屋で暗殺されたのは11月15日。その五日前の10日に、散歩の途中で坂本龍馬と出会ったことが日記にある。そして17日に暗殺されたことを知る。そこには壬生浪士組こと新選組の仕業とのうわさがあるとある。そして翌日の18日には、埋葬されたばかりのお墓にお参りしている。そこには土佐藩の高松太郎や坂本清次郎がいて、一緒に墓を離れている。この日の夜には大久保利通の京都の屋敷に宿泊しているので、大久保と龍馬の死について語ったりしたのかもしれない。
埋葬されてすぐに墓参は、龍馬を弔う気持ちの深さに他なく、親しい関係であったことが理解できる。

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