明治維新と薩摩藩

今年はパリ万博初参加から150年①

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2017.07.01
  • 著者:東川 隆太郎

慶応3(1867)年、薩摩藩は徳川幕府や佐賀藩とともに日本としては初めて万国博覧会に参加した。

開催地はパリで、それまで海外に渡ってまで世界の国々と交流する機会のなかった日本にとっては画期的な出来事となった。このパリ万博への参加は、慶応元(1865)年に英国へ派遣された留学生らの引率者であった五代友厚らが画策したものであった。薩摩藩の使節団は2月6日にパリに到着した。それは幕府の到着よりも二ヶ月ほど早いもであった。

使節団は岩下方平や市来政清、堀孝之など10名で、「薩摩琉球国」として出展し丸十紋も掲げるといった、まるで日本のなかの独立国のような振る舞いであった。その薩摩パビリオンは、幕府のパビリオンとは隣接地にあって琉球通りと名付けられた通りもあった。

このようにして、薩摩藩の名前は世界に知られることになったが、幕府同様、翌年の明治維新によって薩摩琉球国としてのブランド力も薄らぐことになる。

日本初の紡績所「鹿児島紡績所」

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2017.06.12
  • 著者:福田 賢治

(文:鹿児島市維新ふるさと館 特別顧問 福田賢治氏)

 

○紡績業開発に意欲を燃やした島津斉彬

薩摩藩主島津斉彬は、薩摩の豪商濱崎太平次が琉球から持ち帰った西洋の綿糸を見て、「将来これは日本の養蚕・絹織物業の脅威となる」と直感、蘭学者の石河確太郎らに紡績の研究を言い渡した。また、上方から綿栽培の指導者を招き綿作りを奨励、城外の中村に紡績所を建て、さらに田上や郡元に水車館を造り、織糸、織布、帆布、漁網製造など紡織業の開発に努めた。長崎から木製の歯車を使った紡績機械も購入している。
当時、広い海を抱えていた薩摩は大小5,300隻もの帆船を抱え、その帆布を大阪などから購入していたが、これらのすべてを藩内で製造、従来の仕入れ価格の三分の一の値段で製造し、藩財政に大きく貢献した。


○日本初の洋式機械紡績所「鹿児島紡績所」の創設

安政5年(1858年)7月に斉彬が急逝、集成館事業は一時衰退するが、5年後に起きた薩英戦争により、集成館事業の重要性が再認識され、五代友厚や石河確太郎らの建言に基づいて、藩は西洋の学問を奨励するとともに英国へ留学生を派遣、西洋の新しい技術や機械を積極的に導入することになった。
慶応元年(1865年)英国への留学生を引率した五代友厚や新納久脩は、プラット・ブラザーズ社から紡績機械を購入、同時に工場建設や技師の派遣も依頼した。紡績機械は開綿機・梳綿機、錘精紡機・力織機など150台余りで、ほかに蒸気機関も導入、翌年3月には司長イー・ホームをはじめシリングフォードなど4人の技師が鹿児島に入り、工場建設が始まった。
更に、慶応3年(1867年)1月には、工場長ジョン・テットローが機械とともに到着、随行した2名の技師も加わって計7人となり、同年5月に日本初の洋式機械紡績所が竣工、勝手方用人の松岡正人が紡績所総裁に就任した。
原料の綿花はおもに関西方面から買い入れ、職工200人余りが1日10時間の就業で、180㎏を紡いだという。明治2年には白木綿6万5千反、かすり2千600斤ほどを生産しており、おもに関西方面で売却された。


○「鹿児島紡績所技師館」(異人館)の建設

鹿児島紡績所の隣には、その建設や技術指導に関わった英国人技師の宿舎「鹿児島紡績所技師館」が建設され、現存している。別名「異人館」と呼ばれている西洋風の建物であるが、外国人技師の指導の下に日本人の手で建てられ、屋根の内部構造や扉の取っ手の位置の低さなど、随所に日本風が見られる。また、この異人館は、一時鶴丸城内に移転、「中学造士館」の職員室として利用され、その後にまたもとの現在地に戻された経緯がある。

慶応3年は薩土盟約締結の年

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2017.06.01
  • 著者:東川 隆太郎

幕末史のなかで薩長同盟は有名だが、薩摩藩と土佐藩の盟約についてはあまり知られていない。そもそも方向性の違いから盟約も慶応3年内に崩壊したため、その意義も語られていない。ただ、この盟約の締結は両藩の明治維新直前の動きを象徴するものでもあったりする。

締結は、6月22日に京都の三本木において、土佐藩側からは後藤象二郎、福岡孝弟、坂本龍馬など、薩摩藩側は小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通が出席して行われた。これは大政奉還・公儀政体の創出に向けたものであり、もしかするとそれらを実現するためには武力を用いることも意識したものであった。

薩摩藩の期待は、大政奉還の建白の機会が失敗した際には、武力による局面打開が必要であり、それには土佐藩の協力が不可欠であった。9月頃に土佐藩は、非武力による大政奉還運動を推進し始めたため、両藩の密な協力体制は、失われることになる。ただ、その後も対立はするものの両藩の協力は王政復古後まで継続することになる。

イギリス公使館書記官アーネスト・サトウと西郷

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2017.05.01
  • 著者:東川 隆太郎

イギリス公使館の通訳として幕末から明治にかけての日本に滞在したアーネスト・サトウは、日本での体験を「一外交官の見た明治維新」と題した書に記した。そのなかで西郷のことを「黒ダイヤのように光る大きな目玉をしていた」と表現した。おそらく当時の日本に滞在していた外国人のなかで最も西郷と親しい関係にあった人物といえるだろう。
サトウは、日本に来る直前は、ロンドン大学に在籍しており、その時に外務省通訳の試験を受けて合格し、文久2(1862)年に横浜に到着した。
薩英戦争の際には、イギリス艦隊に乗船して戦況を見守り、一時拘束された五代友厚の通訳もした。
西郷と初めて会ったのは、慶応2(1866)年6月にイギリス公使パークスが鹿児島に来た際のことである。この年の12月には、藩の支払を砂糖で代償できないかの交渉のため兵庫港で会談している。さらに慶応3(1867)年7月には、薩摩藩と長州藩に対して軍事援助も申し出て来たが、西郷は断っている。

維新後も交流は続いたが、サトウは明治2(1869)年に一時帰国している。明治政府からの下野や西南戦争の時期には、再び日本に滞在していたサトウは、西郷の行動や戦争を冷静に見守ることになった。日本にとっての激動の時期を直接知るだけに、思いもあったのだろうか、明治28(1895)年には駐日公使に就任し、後の日英同盟締結に尽力している。

旧鹿児島紡績所技師館(異人館)誕生

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2017.04.03
  • 著者:東川 隆太郎

慶応3(1867)年は、世界文化遺産にも登録されている旧鹿児島紡績所技師館こと異人館が竣工してから150年にあたる。この建物は、現在は駐車場やレストランになっている場所にあった鹿児島紡績所に招聘されたイギリス人技師7名の宿舎として建てられたもの。西洋風の建物が珍しい時代だけに、薩摩の職人が試行錯誤しながら建設した建造物でもある。木造2階建て、屋根は方形造りで瓦葺き、建築面積約343平方メートルで、玄関は、正面中央部に八角形に突出した形をしていて、左右対称となっている。また、部屋の周囲は1階が石畳のベランダ、2階が窓付き回廊となっていて、延床面積の約3分の1がベランダと回廊に充てられている。こうしたベランダコロニアルという建築は、日本の近代建築最初の花ともいわれ、同じく世界文化遺産に登録された長崎のグラバー邸とともに、西洋風建築のルーツを知る価値を有している。

慶応3年の五代友厚

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2017.03.01
  • 著者:東川 隆太郎

今から150年前の慶応3(1867)年、五代友厚は忙しく過ごしていた。前年も翌年も忙しい人物ではあるが、その後の功績にも大きく関わる出来事が連続している。

まず、五代にとって個人的なことになるが、藩主から鹿児島郡坂元村坊中馬場(現在の清水町)に屋敷を賜っている。五代友厚は長男ではないことから、生家である城ヶ谷(現在の長田町)の屋敷に居を構えるわけにはいかず、分家することになる。

この年の4月には、同じ天保6(1835)年生まれの坂本龍馬のために尽力している。それは、坂本龍馬が運航していた土佐藩の船が紀州藩の船と衝突し沈没した事件の調停である。沈没した船の名前からいろは丸事件と呼ばれ、福山藩の鞆の浦にて賠償交渉に立ち会い、龍馬ら海援隊が紀州藩から賠償金を受け取ることに成功している。坂本龍馬との親交を示すエピソードといえよう。

最後に平成27年に世界文化遺産に登録された長崎市にある小菅修船場の建造を、商人トーマス・グラバーや薩摩藩家老の小松帯刀に勧めている。蒸気機関による船の曳き上げを可能にした施設で、翌年に竣工した。

とにかく忙しい五代友厚であった。

龍馬・お龍の鹿児島への新婚旅行2

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2017.02.16
  • 著者:福田 賢治

                (著:鹿児島市維新ふるさと館 特別顧問 福田賢治氏)

 

霧島山麓での温泉や登山など最も幸せな時


龍馬夫妻は鹿児島城下のはずれにある原良の小松帯刀の別邸でしばらく過ごした。吉井幸輔(友実、後の宮内大丞)の邸にも宿泊していたとみられる。


しばらく鹿児島城下で過ごした後、3月17日、霧島山麓の、日当山温泉や塩浸温泉で過ごすことになり、鹿児島から船で浜之市(隼人港)へ渡った。その案内役を買って出たのが吉井幸輔と12歳の息子の幸蔵であった。日当山温泉は西郷がよく利用した温泉であり、また、霧島山麓の塩浸温泉は、傷を負った鶴がこの地の温泉に入り元気を取り戻したという言い伝えから「鶴の湯」とも言われ、古くから毒気や刀傷に聞くことで知られた温泉である。塩浸温泉で湯治している間、近くの谷川で魚釣りをしたり、小松帯刀からもらった連発銃で小鳥撃ちをしたりして自然を満喫している。このときよく随行した吉井幸蔵は、晩年、当時の龍馬夫妻の様子について「子供(12歳)の私にさえ目に余るようなことがたびたびあった」と、その仲の好さを息子の勇(「ゴンドラの唄」の作詞家)に語っている。


また、お龍については「急に怒ったり、笑ったりと気分屋」で、「はすっ葉な女に見えた」と、あまり良い印象を持たなかったようである。中でも幸蔵が驚いたのは、ある日のこと、龍馬とお龍の仲が気まずく二人は口を利かないときがあったが、そのとき龍馬が「もういい、もういいお龍さん、仲なおりをしよう・・」と涙を流すのを見たことであったという。幸蔵は「龍馬さんは、なぜあんな女が好きなのだろう」と疑問に思ったと述べている。龍馬は、かた破りの自由で気ままな生き方をする女性を好んだといわれている。


また、二人は和気清麻呂を祀る和気神社や露天風呂の「和気湯」、犬養の滝(龍馬は手紙に「陰剣之滝」と記す)なども巡り、姉の乙女への手紙に「実にこの世のものと思えぬ程の楽しい日々を過ごした」と記している。


3月30日、龍馬夫妻は小松が療養していた霧島の栄之尾温泉を慰問、天孫降臨の「高千穂峰」登山や霧島神宮にも参拝している。高千穂峰では「触ると祟りがあると」案内人の田中吉兵衛が制止するのも聞かず、二人は頂上に祀られている「天之逆鉾」を引き抜いて遊ぶなど、過ぎたいたずらもやっている。


霧島で存分に楽しんだ二人は、4月1日再び塩浸温泉に帰り、1週間ほど湯治したのち、4月12日鹿児島城下に帰りつき、小松邸で過ごした。

今年は慶応3(1867)年に薩土盟約が結ばれてから150年

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2017.02.01
  • 著者:福田 賢治

坂本龍馬の存在が大きすぎるのか、陰の存在のように思われがちな土佐藩士の中岡慎太郎。薩摩藩との関係は案外深く、西郷隆盛邸に宿泊するなどの交流もあった。その接点は、元治元(1864)年12月4日に長州藩とともに都落ちしていた三条実美ら五卿の待遇条件に関しての交渉が、小倉で持たれた時のことであった。薩摩藩側からは西郷隆盛が参加していたが、中岡慎太郎は交渉が決裂した場合は、西郷と刺し違える覚悟であったという。

さて、慶応3年6月22日に京都で結ばれた薩摩藩と土佐藩の盟約は、中岡慎太郎が板垣退助と西郷を引き合わせることで始まるものでもあった。ちなみに薩土盟約は、武力なしに大政奉還を成功させることを藩論とする土佐藩と武力倒幕も視野に入れた活動をする薩摩藩との駆け引きとも捉えられるものである。10月15日には大政奉還の上書が朝廷に受理され、穏やかにことが進むかに見えたが、1ヶ月後の11月15日に、坂本龍馬とともに中岡慎太郎は、京都の近江屋で暗殺される。今年はふたりにとって没後、150年にもあたる。

薩長同盟締結のもうひとりの立役者・中岡慎太郎

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2017.01.04
  • 著者:東川 隆太郎

慶応2(1866)年に締結された薩長同盟の立役者として薩摩藩や長州藩以外の人物で、まず思い描かれるのは坂本龍馬であろう。しかし、もうひとり両藩を結びつける働きをしたのが、やはり龍馬と同藩出身となる中岡慎太郎がいる。中岡も龍馬と同じように薩摩と長州を行き来し、西郷などと親交しながら新しい世の中をつくるべく奔走していた。

中岡慎太郎は天保9(1838)年、土佐の安芸郡北川郷の庄屋の長男として生まれた。始めは庄屋になるべく勉学に励んでいたが、文久元(1861)年に武市半平太の土佐勤王党に加盟すると人生の方向性が一変。同志らとともに五十人組を結成して京都や江戸で政治的活動をするようになる。この活動になかで土佐藩を脱藩し長州藩に逃れることになる。元治元(1864)年の禁門の変に参加した後は、再び長州に身を隠し、この年の暮れに西郷隆盛と接触することになる。ここから大きく薩摩藩との関係を強めていくことになるが、そのことは次回に。

海外を知ることで活躍する米国留学生

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2016.12.01
  • 著者:東川 隆太郎

慶応2(1866)年の藩費留学生の渡米に関しては、前年に派遣された英国留学生と比較するとあまり知られていない感は否めない。しかし、米国留学生も帰国後には明治政府の一員として活躍をすることになる。今回は7名のうち2名に関して、その活動と功績を紹介したい。

ひとりは吉原重俊(よしはら しげとし)。西南戦争の終結後、物価の上昇などがあって日本の財政が破綻しかけていた明治14(1881)年、同郷の松方正義が大蔵卿となり、日本銀行を設立することになる。その初代日本銀行総裁となり、紙幣の信頼回復を目的とした手形や小切手取引の普及に努めることになった。その際の慎重な取引姿勢は、そのままに日本銀行の伝統として受け継がれることになった。

もうひとりは仁礼景範(にれ かげのり)。海軍畑で活躍する薩摩藩出身の人々のなかでは地味な印象もあるが、明治7(1874)年の台湾事件の処理や江華島事件の護衛、明治11(1878)年には海軍兵学校長として後進の育成にも力を注ぐことになる。 このように、ふたりの活躍だけでも、二回目となる留学生の派遣が薩摩藩というより、日本にとっていかに大切であったかが理解されるだろう。

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